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『始まるのはいつだって人の意志から。』
投稿日:2016/12/30
862 0
『始まるのはいつだって人の意志から。』
Tokorozawa Photo
Photo by Satsuki Kudo
Coordinate by Lisa Arai
私は時々、写真を撮っていると思うことがあります。
人が心を動かされる写真とは何なのかを。
人は何を見て、何を感じ、心が動くのかと。
それは形の美しさや趣向の凝り方なのか。
それとも、それら物理的・技術的なものの一切を超えた感覚的に訴えかけることができる目に見えない何かなのか。
結論から言うと、それはその全てであると言えると思います。
形が美しくなければ、人は共通した美しさを感じることができませんし、
撮りたいものを表現をするためには、趣向を凝らす必要があるかもしれません。
そして、何よりもその写真に感覚的に訴えかける力がなければ、その写真に惹かれるものがないからです。
写真を撮ってお客様へ提供するという仕事を6年間も続けていると、
経験的に「ああ、これは良い写真だな。」と思う写真に何回か出会うことがあります。
その「良い写真」とは何かとは、様々な要素があります。
撮っている人が皆違う人なので、その写真によって要素のバランスが異なりますし、
毎回違う被写体の美しさを表現するためには、決して形だけでは測れないものがあります。
それは何なのかと漠然と考えていた4年前のこと、私はある文章を読む機会がありました。
かつて、Mr.Leeが書いたカメラマン教育の文章で『2012年撮影者変化発展プログラム』というものがありました。
ライフスタジオの写真とは何か、ライフスタジオの撮影者とは何なのかを知りたかった私は、この文章を読んですっきりとした答えを持つことができました。
その中にこんな文があります。
"一般人を対象にするスタジオでは撮影者を上手な人と下手な人、
または、有能な人と普通の人程度の2つの段階で区分している。
ならば、それ自体を決定する基準は何なのか?いろいろな基準があるだろうが、
「自分が自ら条件を作ること」と「あるがままの条件から探すこと」では、勝負が分かれると考える。
[自分が新しい条件を作ること]は
自分の意志が積極的に介入されているということから価値が発生する。
ある条件だけで探すことは、ほとんどがコピーと同じであるが、
[自分が新しい条件を作ること]は創造であり、無限の可能性を含んでいる。
私達は人を対象にしている。
人は、自分がどんな人生を生きてきて、どんな価値観を持っているのか書かれた本を持って歩いているわけではない。
短い時間の中でその人に対する情報取得と共に分析が同時になされなければならない。
そして、同意を得る過程がなければならない。
あたかも精神科治療のために催眠療法を使用し、その人の内面にあるものを表に出していくことと同じだ。
より多くの情報と正確な判断をすればするほど、私達が写真で表現できる可能性は高くなるようになっている。
人間は普遍性と特殊性とを同時に持っている。人間が持っている普遍的価値は誰にでもあるが、一人一人違う。
このような普遍性と特殊性の結合が、その人が存在している美しさであり、私達はそれを表現する義務がある。
被写体が持っているものを捕らえ、外に表現することが条件を作ることであり、散らばった状況に魂を与えることは、
発する言葉やポーズのような撮影者の技術である。
人に集中するということは、実践を基盤にしている。
これは、単純に撮影過程で起きている人間関係に限ったことではない。
私達が息をし生きているすべての部分に、いつでも同じ基準と行動が適用されなければならず、撮影過程ではより真正性が含まれた実践を必要とする。
人間を顧客として対象化しないこと。
慣れないために常に自分を新しい条件に追いやること。
人間と社会に対する勉強を面倒くさいと思わないこと。
原則と目的を失わないこと。"
一般的な商業写真という括りに苦しめられてきた私にとって、この文章は衝撃的でした。
それと同時にとても気持ちが楽になったのを覚えています。
私が知っている商業写真とは、自分の意志とは別に
「wedding写真では、この場所で、このポーズで、この光で、キスシーンと指輪のシーンは必須で撮らなければならない。」、
「baby写真とは、おむつ写真がなければ、笑顔のクローズアップ写真がなければいけない」と言ったような、
weddingとはこういうものだ、babyとはこういう存在だというような固定概念を押し付けられているようでした。
それがこの文章では、ライフスタジオの写真に重要なのは、「人」であり、
その「人」を見て、接し、深く入り込み、その中で撮影者自身の「意志」を以て、
写真を撮ることでその写真に価値が発生するとあります。
その「意志」があるから、写したいものをその人の「意志」を以て表現する。
その「意志」があるから、インテリアやライトボックスや他者に制限されず、
自らの「意志」を以て外にあるものの条件を変化させることができる。
他者も同じ人だから、自分の「意志」に自然に不快な思いをさせず同意を得てもらうために、「人」に深く入り、
その唯一無二の関係性を以てさらなる自由を得ること。
それがライフスタジオの原則と目的であること。
それがライフスタジオの写真の価値であること。
原則と目的のもと、自ら「意志」を持つということは矛盾しているように見えるし、
文面から見ると不自由そうに見えるかもしれません。
しかし、私たちは自ら始まる「意志」を尊重すると同時に、
他者の「意志」を尊重せずに本当の意味で「自由」になることができません。
全ての存在を排除せず、否定せず、自らを変化させ、
外側を変化させる能力を持つ人が本当に「自由」な人であると思います。
そうすることで自分の「意志」を無理やりではなく自然に人生に、写真に反映することができるのではないかと思うのです。
そう。
「良い写真」とは、撮影者の意志が無理やりではなくごくごく自然に反映されていることが基準の一つではないかと私は考えました。
volvoさんが以前、「良い写真とはそつのないこと」だと定義しました。
また「その一枚専用に写真が作られていること」だとも言いました。
「そつがない」とは「不自然さがないこと」、「その一枚専用に作る」とは「自らの意志で条件を変化させていること」を意味します。
そのためには、技術的な部分の練習も必要だし、深く考え自ら結論を出す感性的な部分の学習も必要です。
自分の意志を表現するには、技術的な手数と知識、そして自分の意志が何かを知るための哲学がなによりも重要です。
この原則と目的のもと、ライフスタジオの骨組みから教育までがすべて写真につながり、人生につながります。
この写真を撮るときに、考えていたのは「特徴的であろう」ということでした。
それは私自身の「意志」でもありましたが、被写体自身の存在感の「特殊性」を強く感じました。
この子は8歳で写真を撮られるのが好きな、いわゆる上手な子です。
しかし、それだけではなく話すだけではわからない、眼差しや表情、醸し出す雰囲気に
この8歳の男の子から人としての深さを感じました。
この子の存在をただ認識するだけでは、きっと私の最大限の得意分野で撮っていたことでしょう。
しかし、ライフスタジオの原則と目的は「被写体の美しさ」や「被写体の唯一性」を、
自らの意志を以て最大限表現するということです。
よって、私はここで表現するのはこの被写体の特に際立った存在感であると考え、
いつもは使わない洗面所の1mほどしかない隙間の、誰も注目されていなかった美しい光で撮ろうと思いました。
狭く、光も美しいとはいえシビアな場所は非常に「特殊的」であり「特徴的」です。
この光で撮るということは、いつもと違う撮り方になるのでいつもと違う美しさの写真を撮るということです。
それゆえ、私がこれまで撮ってきた得意のふんわり明るい写真ではなく、
敢えて顔に影を作り光と表情を強調するという表現をしました。
光を当てる範囲に気を付け、鼻筋まで光がいかないよう、
かつこの被写体を際立たせるために睫毛にはきれいに光が当たるように、
後ろ斜めから入る自然光の角度に気を付け、さらに光と影を強調するための前ぼかしをいれました。
そして被写体の立ち位置を設定し、声をかけます。
光と画角、ポージング、そして表情がすべてマッチしたその時に、その子の深さに触れたような瞬間でした。
1シーンを撮っていく中で、笑顔も節目がちな表情もお手の物の彼ですが、
くるくると表情を変えていく中でまっすぐにこちらを見る目にハッとさせられたのが、
この被写体の特殊的な雰囲気だったと感じました。
この表情をこの子らしく特徴的に撮るために、こちらもその被写体らしさを撮りたい意志を持ち、
敢えていつもとは違う特徴的な撮影の仕方を執ること。
それを毎日繰り返し行うことが、写真だけではなく、人との接し方、
広く見れば人生を生きる姿勢につながるのだと、写真を撮っていると感じます。
日々何か価値を生むということは、面倒くさいし、疲れるし、簡単なことではありません。
しかし、価値とはそれにも勝る楽しさや喜び、嬉しさがあるのだと感じます。
それはいつも、誰かから刺激を与えてもらったときだけ変化するのではなく、いつだって自らの意志から始まるものです。
哲学エッセイを勉強していると、矛盾の話が出てきます。
物事や事物における矛盾とは、変化するか変化しないか両方の面を持っており、
変化するにはそのもののなかに変化に向かう要素が必要なのだとあります。
人に置き換えるとその要素とは「意志」なのではないかと思います。
「意志」がなければ、いくら外側から知識や技術を教えても、話をしてもその人のアンテナが作動せず、
外的要因は内へは入りません。
だから、変化をさせるのは外側の要因ではなく、自分自身が「意志」を持ち、
その「意志」にまっすぐに自由に生きているかどうかになります。
写真を撮るということは、自分の内面に正直であることです。
いつだったか、ミンさんにどうすれば自分の写真を撮れるようになるのかお話を聞いたことがあります。
それはいたってシンプルな答えでした。
「簡単ですよ。自分が撮りたいと思った瞬間に、シャッターを切ればいいんです。」
その言葉には、シンプルですがライフスタジオの原則が力強く滲んでいました。
そのシンプルな言葉を実践するには、日々自らの条件を変え、常に強い意志を持つことが必要となります。
そのことを、楽しめれば人はいつだって自由になれる。
それを始めるのはいつだって人の意志から、なのだから。
Tokorozawa Photo
Photo by Satsuki Kudo
Coordinate by Lisa Arai
私は時々、写真を撮っていると思うことがあります。
人が心を動かされる写真とは何なのかを。
人は何を見て、何を感じ、心が動くのかと。
それは形の美しさや趣向の凝り方なのか。
それとも、それら物理的・技術的なものの一切を超えた感覚的に訴えかけることができる目に見えない何かなのか。
結論から言うと、それはその全てであると言えると思います。
形が美しくなければ、人は共通した美しさを感じることができませんし、
撮りたいものを表現をするためには、趣向を凝らす必要があるかもしれません。
そして、何よりもその写真に感覚的に訴えかける力がなければ、その写真に惹かれるものがないからです。
写真を撮ってお客様へ提供するという仕事を6年間も続けていると、
経験的に「ああ、これは良い写真だな。」と思う写真に何回か出会うことがあります。
その「良い写真」とは何かとは、様々な要素があります。
撮っている人が皆違う人なので、その写真によって要素のバランスが異なりますし、
毎回違う被写体の美しさを表現するためには、決して形だけでは測れないものがあります。
それは何なのかと漠然と考えていた4年前のこと、私はある文章を読む機会がありました。
かつて、Mr.Leeが書いたカメラマン教育の文章で『2012年撮影者変化発展プログラム』というものがありました。
ライフスタジオの写真とは何か、ライフスタジオの撮影者とは何なのかを知りたかった私は、この文章を読んですっきりとした答えを持つことができました。
その中にこんな文があります。
"一般人を対象にするスタジオでは撮影者を上手な人と下手な人、
または、有能な人と普通の人程度の2つの段階で区分している。
ならば、それ自体を決定する基準は何なのか?いろいろな基準があるだろうが、
「自分が自ら条件を作ること」と「あるがままの条件から探すこと」では、勝負が分かれると考える。
[自分が新しい条件を作ること]は
自分の意志が積極的に介入されているということから価値が発生する。
ある条件だけで探すことは、ほとんどがコピーと同じであるが、
[自分が新しい条件を作ること]は創造であり、無限の可能性を含んでいる。
私達は人を対象にしている。
人は、自分がどんな人生を生きてきて、どんな価値観を持っているのか書かれた本を持って歩いているわけではない。
短い時間の中でその人に対する情報取得と共に分析が同時になされなければならない。
そして、同意を得る過程がなければならない。
あたかも精神科治療のために催眠療法を使用し、その人の内面にあるものを表に出していくことと同じだ。
より多くの情報と正確な判断をすればするほど、私達が写真で表現できる可能性は高くなるようになっている。
人間は普遍性と特殊性とを同時に持っている。人間が持っている普遍的価値は誰にでもあるが、一人一人違う。
このような普遍性と特殊性の結合が、その人が存在している美しさであり、私達はそれを表現する義務がある。
被写体が持っているものを捕らえ、外に表現することが条件を作ることであり、散らばった状況に魂を与えることは、
発する言葉やポーズのような撮影者の技術である。
人に集中するということは、実践を基盤にしている。
これは、単純に撮影過程で起きている人間関係に限ったことではない。
私達が息をし生きているすべての部分に、いつでも同じ基準と行動が適用されなければならず、撮影過程ではより真正性が含まれた実践を必要とする。
人間を顧客として対象化しないこと。
慣れないために常に自分を新しい条件に追いやること。
人間と社会に対する勉強を面倒くさいと思わないこと。
原則と目的を失わないこと。"
一般的な商業写真という括りに苦しめられてきた私にとって、この文章は衝撃的でした。
それと同時にとても気持ちが楽になったのを覚えています。
私が知っている商業写真とは、自分の意志とは別に
「wedding写真では、この場所で、このポーズで、この光で、キスシーンと指輪のシーンは必須で撮らなければならない。」、
「baby写真とは、おむつ写真がなければ、笑顔のクローズアップ写真がなければいけない」と言ったような、
weddingとはこういうものだ、babyとはこういう存在だというような固定概念を押し付けられているようでした。
それがこの文章では、ライフスタジオの写真に重要なのは、「人」であり、
その「人」を見て、接し、深く入り込み、その中で撮影者自身の「意志」を以て、
写真を撮ることでその写真に価値が発生するとあります。
その「意志」があるから、写したいものをその人の「意志」を以て表現する。
その「意志」があるから、インテリアやライトボックスや他者に制限されず、
自らの「意志」を以て外にあるものの条件を変化させることができる。
他者も同じ人だから、自分の「意志」に自然に不快な思いをさせず同意を得てもらうために、「人」に深く入り、
その唯一無二の関係性を以てさらなる自由を得ること。
それがライフスタジオの原則と目的であること。
それがライフスタジオの写真の価値であること。
原則と目的のもと、自ら「意志」を持つということは矛盾しているように見えるし、
文面から見ると不自由そうに見えるかもしれません。
しかし、私たちは自ら始まる「意志」を尊重すると同時に、
他者の「意志」を尊重せずに本当の意味で「自由」になることができません。
全ての存在を排除せず、否定せず、自らを変化させ、
外側を変化させる能力を持つ人が本当に「自由」な人であると思います。
そうすることで自分の「意志」を無理やりではなく自然に人生に、写真に反映することができるのではないかと思うのです。
そう。
「良い写真」とは、撮影者の意志が無理やりではなくごくごく自然に反映されていることが基準の一つではないかと私は考えました。
volvoさんが以前、「良い写真とはそつのないこと」だと定義しました。
また「その一枚専用に写真が作られていること」だとも言いました。
「そつがない」とは「不自然さがないこと」、「その一枚専用に作る」とは「自らの意志で条件を変化させていること」を意味します。
そのためには、技術的な部分の練習も必要だし、深く考え自ら結論を出す感性的な部分の学習も必要です。
自分の意志を表現するには、技術的な手数と知識、そして自分の意志が何かを知るための哲学がなによりも重要です。
この原則と目的のもと、ライフスタジオの骨組みから教育までがすべて写真につながり、人生につながります。
この写真を撮るときに、考えていたのは「特徴的であろう」ということでした。
それは私自身の「意志」でもありましたが、被写体自身の存在感の「特殊性」を強く感じました。
この子は8歳で写真を撮られるのが好きな、いわゆる上手な子です。
しかし、それだけではなく話すだけではわからない、眼差しや表情、醸し出す雰囲気に
この8歳の男の子から人としての深さを感じました。
この子の存在をただ認識するだけでは、きっと私の最大限の得意分野で撮っていたことでしょう。
しかし、ライフスタジオの原則と目的は「被写体の美しさ」や「被写体の唯一性」を、
自らの意志を以て最大限表現するということです。
よって、私はここで表現するのはこの被写体の特に際立った存在感であると考え、
いつもは使わない洗面所の1mほどしかない隙間の、誰も注目されていなかった美しい光で撮ろうと思いました。
狭く、光も美しいとはいえシビアな場所は非常に「特殊的」であり「特徴的」です。
この光で撮るということは、いつもと違う撮り方になるのでいつもと違う美しさの写真を撮るということです。
それゆえ、私がこれまで撮ってきた得意のふんわり明るい写真ではなく、
敢えて顔に影を作り光と表情を強調するという表現をしました。
光を当てる範囲に気を付け、鼻筋まで光がいかないよう、
かつこの被写体を際立たせるために睫毛にはきれいに光が当たるように、
後ろ斜めから入る自然光の角度に気を付け、さらに光と影を強調するための前ぼかしをいれました。
そして被写体の立ち位置を設定し、声をかけます。
光と画角、ポージング、そして表情がすべてマッチしたその時に、その子の深さに触れたような瞬間でした。
1シーンを撮っていく中で、笑顔も節目がちな表情もお手の物の彼ですが、
くるくると表情を変えていく中でまっすぐにこちらを見る目にハッとさせられたのが、
この被写体の特殊的な雰囲気だったと感じました。
この表情をこの子らしく特徴的に撮るために、こちらもその被写体らしさを撮りたい意志を持ち、
敢えていつもとは違う特徴的な撮影の仕方を執ること。
それを毎日繰り返し行うことが、写真だけではなく、人との接し方、
広く見れば人生を生きる姿勢につながるのだと、写真を撮っていると感じます。
日々何か価値を生むということは、面倒くさいし、疲れるし、簡単なことではありません。
しかし、価値とはそれにも勝る楽しさや喜び、嬉しさがあるのだと感じます。
それはいつも、誰かから刺激を与えてもらったときだけ変化するのではなく、いつだって自らの意志から始まるものです。
哲学エッセイを勉強していると、矛盾の話が出てきます。
物事や事物における矛盾とは、変化するか変化しないか両方の面を持っており、
変化するにはそのもののなかに変化に向かう要素が必要なのだとあります。
人に置き換えるとその要素とは「意志」なのではないかと思います。
「意志」がなければ、いくら外側から知識や技術を教えても、話をしてもその人のアンテナが作動せず、
外的要因は内へは入りません。
だから、変化をさせるのは外側の要因ではなく、自分自身が「意志」を持ち、
その「意志」にまっすぐに自由に生きているかどうかになります。
写真を撮るということは、自分の内面に正直であることです。
いつだったか、ミンさんにどうすれば自分の写真を撮れるようになるのかお話を聞いたことがあります。
それはいたってシンプルな答えでした。
「簡単ですよ。自分が撮りたいと思った瞬間に、シャッターを切ればいいんです。」
その言葉には、シンプルですがライフスタジオの原則が力強く滲んでいました。
そのシンプルな言葉を実践するには、日々自らの条件を変え、常に強い意志を持つことが必要となります。
そのことを、楽しめれば人はいつだって自由になれる。
それを始めるのはいつだって人の意志から、なのだから。
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