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京都桂店
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見ているものは真実か。
投稿日:2016/12/9
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『見ているものは真実か。』
Tokorozawa Photo
Photographer: Satsuki Kudo
Coordinater: Takahiro Sakai
ふと思うのです。
私がいつも見ているあなたは、真実のあなたなのかと。
肩書や役割や評判という衣装を着ているままのあなたは誰なのかと。
例えば、もしも私がライフスタジオで働いていなかったとしたら、あなたから見た私はいったい誰なのかと。
例えば、もしも私があなたと初対面で、私のことをほかのだれからも聞いていない状態で接してみたならば、
あなたから見た私はいったい誰なのかと。
鏡で自分の姿をずっと見ていると、鏡に映っている自分の姿が何故だか自分の姿に見えないような気がして。
じゃあ、私が私として認識しているものはなんなのか。それは、周囲の固定概念を着せられた自分であると気付くのです。
私たちは、日々人と接して生きています。
家にいる時も、仕事をするときも、外に出てスーパーやコンビニに行く時ですらも、誰とも接することがないことはありえません。
だから、他人から見た自分や、自分から見た他人へのイメージを作り上げながら人と接しています。
そのイメージとは、本当に自分で作り上げたものなのか。
それとも多数の他人の感想を総合的にまとめて作り上げられたイメージなのか。どちらなのか。
この撮影のときもそうでした。
この被写体に会うのは今回で2回目です。私の観念の中では、この被写体は7歳の恥ずかしがり屋の生えかけの前歯が気になっている大人しい女の子。
パパとママからは、いつも無愛想でわがままだそうです。楽しいとこどもらしくはしゃぐ姿をあまり見たことなく、穏やかに佇むことが多い子。
だけど、撮影しているうちに「あれ、この子は誰だ?」とふと気づくのです。撮影しているうちに、自分が事前に持っていたイメージが崩れていくような感覚。もちろん被写体が何か目に見える変化をしていたわけではないのですが、よくよく見てみるとどんどんイメージが変わってくる。それはきっと私の中で起きた観念の変化なのだと思います。
パパやママから聞いたイメージや、私が前回までこの被写体に抱いていたイメージが徐々に剥がれ落ちるかのように無くなっていき、やがてまるで初対面で接するときのように新鮮な姿の被写体のイメージに辿り着きます。
それは写真を撮るという過程の中に生じてくる一種の錯覚なのかもしれません。ファインダーを通して表情や被写体の向き、光やインテリア・コーディネート、そして会話をすることによって、この被写体を最大限美しく表現しようとすることが、その被写体が普段から着せられている固定概念を崩すことになります。
最大限美しく撮ろうとすることは、様々な要素に鋭敏になります。光やインテリア・構図の配置もそうですし、コーディネートのテイストや、その被写体の僅かに揺れ動く表情の全てに敏感に反応します。そうするために撮影者は自ら投げかけ被写体からの反応を引き出し、その反応を僅かでも取りこぼすまいとファインダーに集中します。そうすることで、再びその被写体のイメージを写真というツールを以て再構築するのです。
この被写体は、物静かな雰囲気が特徴的でした。
しかし、会話し接していくうちに、会話の内容が深く、人を良く見て観察をしていることを知りました。そんな彼女の透き通った瞳を見ているうちに、人の奥の心まで見透かされてしまうような錯覚を覚えました。
透き通った泉のように美しいイメージ。彼女と話していると、私自身の真実まで映されるようなそんな感覚を覚えました。
そんな彼女のイメージを再構築するのに適した画角はクローズアップ。
そうすることで、彼女の瞳に集中することができます。澄んだイメージを出すために、光は半逆光と床の照り返しでハイキー気味の露出。
加えて青い色の青ぼかしを入れることで、透明感をイメージしました。普段は青い前ぼかしは使わないのですが、彼女の透きとおったイメージを表現するために、顔半分にかぶせて透かせるように撮りました。
またあえてポージングを指示せずに、真正面を向かせることで彼女の人へ向けた真っ直ぐさが良く表れます。
固定概念を崩し、概念を再構築すること。そうすることで、私から見たその人が徐々に見えて来ます。その過程は、普段見ているものを見慣れないように見ることを意識することで日常的に発揮されるのかもしれません。例えば、同僚や家族を写真に撮ってみる。すると、普段は見ないようなところまで気にする。よく観察してみると、だんだん今まで抱いていた固定概念が崩れ、その人へのイメージが変わってきます。
それが、その被写体の真実の姿に向かうことなのかもしれません。
しかし、それもまた固定概念なのかもしれないという不安定さを持っています。
だから常に、何事にも固定概念を壊し再構築していくということが必要なのかもしれません。
ライフスタジオでは、「人」が「人」として接することが理念としてあります。それは、自らが「人」として「人」に接して「人」ならではの関係性を築いていくことを意味します。自らが「人」になるということは、自らの基軸を持ち、自らの目で判断し、自ら考え、自ら接し、自ら作っていくこと。
そこに、既存のイメージや概念は意味を持ちません。なぜならば、「人」としてその「人」を見るということは、その人を取り巻いている固定概念を見つめているでもなく、自らの目でその「人」自身を見るということだからです。
誰かに作られた固定概念や習慣化した固定概念というフィルターを外して、自らの「人」として接し考え、再構築すること。
私の解釈として、私の言葉であなたを語り、私の写真であなた自身を表現することで、あなたの真実に近づくのかもしれないと思い、私は日々ファインダーをのぞくのです。
Tokorozawa Photo
Photographer: Satsuki Kudo
Coordinater: Takahiro Sakai
ふと思うのです。
私がいつも見ているあなたは、真実のあなたなのかと。
肩書や役割や評判という衣装を着ているままのあなたは誰なのかと。
例えば、もしも私がライフスタジオで働いていなかったとしたら、あなたから見た私はいったい誰なのかと。
例えば、もしも私があなたと初対面で、私のことをほかのだれからも聞いていない状態で接してみたならば、
あなたから見た私はいったい誰なのかと。
鏡で自分の姿をずっと見ていると、鏡に映っている自分の姿が何故だか自分の姿に見えないような気がして。
じゃあ、私が私として認識しているものはなんなのか。それは、周囲の固定概念を着せられた自分であると気付くのです。
私たちは、日々人と接して生きています。
家にいる時も、仕事をするときも、外に出てスーパーやコンビニに行く時ですらも、誰とも接することがないことはありえません。
だから、他人から見た自分や、自分から見た他人へのイメージを作り上げながら人と接しています。
そのイメージとは、本当に自分で作り上げたものなのか。
それとも多数の他人の感想を総合的にまとめて作り上げられたイメージなのか。どちらなのか。
この撮影のときもそうでした。
この被写体に会うのは今回で2回目です。私の観念の中では、この被写体は7歳の恥ずかしがり屋の生えかけの前歯が気になっている大人しい女の子。
パパとママからは、いつも無愛想でわがままだそうです。楽しいとこどもらしくはしゃぐ姿をあまり見たことなく、穏やかに佇むことが多い子。
だけど、撮影しているうちに「あれ、この子は誰だ?」とふと気づくのです。撮影しているうちに、自分が事前に持っていたイメージが崩れていくような感覚。もちろん被写体が何か目に見える変化をしていたわけではないのですが、よくよく見てみるとどんどんイメージが変わってくる。それはきっと私の中で起きた観念の変化なのだと思います。
パパやママから聞いたイメージや、私が前回までこの被写体に抱いていたイメージが徐々に剥がれ落ちるかのように無くなっていき、やがてまるで初対面で接するときのように新鮮な姿の被写体のイメージに辿り着きます。
それは写真を撮るという過程の中に生じてくる一種の錯覚なのかもしれません。ファインダーを通して表情や被写体の向き、光やインテリア・コーディネート、そして会話をすることによって、この被写体を最大限美しく表現しようとすることが、その被写体が普段から着せられている固定概念を崩すことになります。
最大限美しく撮ろうとすることは、様々な要素に鋭敏になります。光やインテリア・構図の配置もそうですし、コーディネートのテイストや、その被写体の僅かに揺れ動く表情の全てに敏感に反応します。そうするために撮影者は自ら投げかけ被写体からの反応を引き出し、その反応を僅かでも取りこぼすまいとファインダーに集中します。そうすることで、再びその被写体のイメージを写真というツールを以て再構築するのです。
この被写体は、物静かな雰囲気が特徴的でした。
しかし、会話し接していくうちに、会話の内容が深く、人を良く見て観察をしていることを知りました。そんな彼女の透き通った瞳を見ているうちに、人の奥の心まで見透かされてしまうような錯覚を覚えました。
透き通った泉のように美しいイメージ。彼女と話していると、私自身の真実まで映されるようなそんな感覚を覚えました。
そんな彼女のイメージを再構築するのに適した画角はクローズアップ。
そうすることで、彼女の瞳に集中することができます。澄んだイメージを出すために、光は半逆光と床の照り返しでハイキー気味の露出。
加えて青い色の青ぼかしを入れることで、透明感をイメージしました。普段は青い前ぼかしは使わないのですが、彼女の透きとおったイメージを表現するために、顔半分にかぶせて透かせるように撮りました。
またあえてポージングを指示せずに、真正面を向かせることで彼女の人へ向けた真っ直ぐさが良く表れます。
固定概念を崩し、概念を再構築すること。そうすることで、私から見たその人が徐々に見えて来ます。その過程は、普段見ているものを見慣れないように見ることを意識することで日常的に発揮されるのかもしれません。例えば、同僚や家族を写真に撮ってみる。すると、普段は見ないようなところまで気にする。よく観察してみると、だんだん今まで抱いていた固定概念が崩れ、その人へのイメージが変わってきます。
それが、その被写体の真実の姿に向かうことなのかもしれません。
しかし、それもまた固定概念なのかもしれないという不安定さを持っています。
だから常に、何事にも固定概念を壊し再構築していくということが必要なのかもしれません。
ライフスタジオでは、「人」が「人」として接することが理念としてあります。それは、自らが「人」として「人」に接して「人」ならではの関係性を築いていくことを意味します。自らが「人」になるということは、自らの基軸を持ち、自らの目で判断し、自ら考え、自ら接し、自ら作っていくこと。
そこに、既存のイメージや概念は意味を持ちません。なぜならば、「人」としてその「人」を見るということは、その人を取り巻いている固定概念を見つめているでもなく、自らの目でその「人」自身を見るということだからです。
誰かに作られた固定概念や習慣化した固定概念というフィルターを外して、自らの「人」として接し考え、再構築すること。
私の解釈として、私の言葉であなたを語り、私の写真であなた自身を表現することで、あなたの真実に近づくのかもしれないと思い、私は日々ファインダーをのぞくのです。
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