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瞳が語るもの
投稿日:2016/11/25
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瞳が語るもの
Tokotozawa Photo
Photographer: Satsuki Kudo
Coordinater: Kaori Kinoshita
"モデルの瞳に感動したら瞳から描け、首筋に感動したら首筋から描くのだ。
画面から感動が伝わってくるのは初心の感動があるかないかである。" -藤田嗣治-
私が見ている世界はどんなものなのか。それはきっと私だけのもので、私が好きなもの、感動したもの、心地いいものを集めて、それだけをこの世界の中で美しいものであると規定している世界。
その世界は、誰かが見ているものとは違うのだろうけれど、共感できないものではないと思う。だから、私が美味しいと思うものを作って誰かと食べたいし、美しいと思うものを誰かと見たい。手料理を作ったり、どこかへ美味しいものを食べに行ったり、写真展や美術展を見に行くのも、いつも誰かと共に過ごすことを意識している。
人はいつだって他の人とは違うものだし、私が初めて見て惹かれる部分が他人から見て惹かれるとは限らない。私は人を見る時に瞳に惹かれることが多いが、ある人は手に惹かれるかもしれないし、またある人は首筋に惹かれるのかもしれない。
そこには、その人にしかわからない美しさの波が流れているものであり何らかの方法で形にしなければ、それはきっと私だけの世界で終わってしまうものである。
幸いにも、私には写真というツールがある。写真は、絵画と違いひたすらに実像を写すものだが、その画面を構成するという権利は撮影者にあり、画角・構図・光・被写体の瞬間など構成要素を撮影者が選択し、作り、写真を撮影する。だからこそ、自分の主観を反映させ、自分の世界の中で美しいと思うものを写真に残すことができる。人に、私が美しいと思うものを伝えることができる。
私はだいたい瞳に惹かれる。瞳を見たら、その人の内面が滲み出るような気がするし、その人の誠実さや真実を物語るものは瞳であると勝手に信じている。だから、被写体を写すときに瞳にフォーカスして写すことがよくある。遠くを見つめるまなざしや、真剣に何かをしているときのまなざしに惹かれて、私は被写体を美しく残したいと思うのかもしれない。
夕方だった。学校帰りで少し眠そうな顔をして、その女の子は玄関を開けて入ってきた。1歳の赤ちゃんの頃から毎年所沢店に通ってくれているその子はもう8歳。撮影にも慣れていて、ポーズも表情も硬さが無く、いわゆるお利口さんだった。撮影もスムーズに進み、会話も弾み、終始リラックスしたムードが流れる中、「ポーズも笑顔も上手なお利口さんの8歳の女の子」としてだけではなく、その子自身にフォーカスした美しさを写真に残したいと思った。
少し釣り目のきれいな瞳に惹かれていた。取り繕ったような表情や、此方に気を使ったような眼差しではなく、素のままの彼女の瞳を見たいと思っていた。だから、このとき少し意味不明な質問をしたと思う。(詳しくは覚えていないけれど…笑)そのときに、ふと彼女自身を感じた。そのときの透き通った黒目の大きな瞳を、この撮影の中で最も美しいと感じたのは、この場にいる大人の中できっと私だけだったのかもしれない。だけど、私はそこに彼女自身の本当の美しさを感じた。だから、それを写真で表現をした。
構図は、目と表情にフォーカスさせるためにクローズアップにし、表情・目線の先を想像させるように横の構図を選んだ。目線の先に前ぼかしを入れたのは、その子の思念を想起させるためだ。露出は、何かを思いふけるような被写体自身の世界観を表現するために、背景を落としながら、被写体に半逆光気味のサイド光を当て、それとなく夜とわかるような雰囲気を作った。単焦点レンズを使用することで、体を入れポーズがわかるようにしながらも、美しい瞳に自然と目が行くようにした。
ただ、瞳を表現するなら瞳だけを写したクローズアップを撮ればいいが、このように体を画角に入れポーズをわかるようにしたのは、自然さを出すためだ。自然さは、被写体がその表情・目線の先を違和感なく見せるために必要だ。この写真に重要なのは、その自然さだからである。この子はお利口さんであるがゆえに、その写真のほとんどは撮影者の目やご両親の目を気にしている。どことなく堅い雰囲気が漂いがちだ。しかし、私が写したいのは、「その被写体自身」である。何も気にしない自然体の美しさを演出し、表現をすることが重要だからだ。
モニターを終えたときに、ご両親から「笑っていない表情があんなに感動的なんて知りませんでした」というお言葉をいただけた。「ふとした瞬間を見逃さないでくれて」という言葉を聞けたときに、私だけの世界が、その空間にいた全員の世界に変わったような確信を得た。私だけの美しいという概念を、共通したものにするには写真に撮って共有し反復していくという過程が重要であると、こうしたときに実感する。
こうして、私だけのもの、また相手だけのものを、一緒にいるこの空間に出し合うということが、人と一緒に生きるということなのかもしれない。感動というものは、そうして生み出されるのかもしれない。
Tokotozawa Photo
Photographer: Satsuki Kudo
Coordinater: Kaori Kinoshita
"モデルの瞳に感動したら瞳から描け、首筋に感動したら首筋から描くのだ。
画面から感動が伝わってくるのは初心の感動があるかないかである。" -藤田嗣治-
私が見ている世界はどんなものなのか。それはきっと私だけのもので、私が好きなもの、感動したもの、心地いいものを集めて、それだけをこの世界の中で美しいものであると規定している世界。
その世界は、誰かが見ているものとは違うのだろうけれど、共感できないものではないと思う。だから、私が美味しいと思うものを作って誰かと食べたいし、美しいと思うものを誰かと見たい。手料理を作ったり、どこかへ美味しいものを食べに行ったり、写真展や美術展を見に行くのも、いつも誰かと共に過ごすことを意識している。
人はいつだって他の人とは違うものだし、私が初めて見て惹かれる部分が他人から見て惹かれるとは限らない。私は人を見る時に瞳に惹かれることが多いが、ある人は手に惹かれるかもしれないし、またある人は首筋に惹かれるのかもしれない。
そこには、その人にしかわからない美しさの波が流れているものであり何らかの方法で形にしなければ、それはきっと私だけの世界で終わってしまうものである。
幸いにも、私には写真というツールがある。写真は、絵画と違いひたすらに実像を写すものだが、その画面を構成するという権利は撮影者にあり、画角・構図・光・被写体の瞬間など構成要素を撮影者が選択し、作り、写真を撮影する。だからこそ、自分の主観を反映させ、自分の世界の中で美しいと思うものを写真に残すことができる。人に、私が美しいと思うものを伝えることができる。
私はだいたい瞳に惹かれる。瞳を見たら、その人の内面が滲み出るような気がするし、その人の誠実さや真実を物語るものは瞳であると勝手に信じている。だから、被写体を写すときに瞳にフォーカスして写すことがよくある。遠くを見つめるまなざしや、真剣に何かをしているときのまなざしに惹かれて、私は被写体を美しく残したいと思うのかもしれない。
夕方だった。学校帰りで少し眠そうな顔をして、その女の子は玄関を開けて入ってきた。1歳の赤ちゃんの頃から毎年所沢店に通ってくれているその子はもう8歳。撮影にも慣れていて、ポーズも表情も硬さが無く、いわゆるお利口さんだった。撮影もスムーズに進み、会話も弾み、終始リラックスしたムードが流れる中、「ポーズも笑顔も上手なお利口さんの8歳の女の子」としてだけではなく、その子自身にフォーカスした美しさを写真に残したいと思った。
少し釣り目のきれいな瞳に惹かれていた。取り繕ったような表情や、此方に気を使ったような眼差しではなく、素のままの彼女の瞳を見たいと思っていた。だから、このとき少し意味不明な質問をしたと思う。(詳しくは覚えていないけれど…笑)そのときに、ふと彼女自身を感じた。そのときの透き通った黒目の大きな瞳を、この撮影の中で最も美しいと感じたのは、この場にいる大人の中できっと私だけだったのかもしれない。だけど、私はそこに彼女自身の本当の美しさを感じた。だから、それを写真で表現をした。
構図は、目と表情にフォーカスさせるためにクローズアップにし、表情・目線の先を想像させるように横の構図を選んだ。目線の先に前ぼかしを入れたのは、その子の思念を想起させるためだ。露出は、何かを思いふけるような被写体自身の世界観を表現するために、背景を落としながら、被写体に半逆光気味のサイド光を当て、それとなく夜とわかるような雰囲気を作った。単焦点レンズを使用することで、体を入れポーズがわかるようにしながらも、美しい瞳に自然と目が行くようにした。
ただ、瞳を表現するなら瞳だけを写したクローズアップを撮ればいいが、このように体を画角に入れポーズをわかるようにしたのは、自然さを出すためだ。自然さは、被写体がその表情・目線の先を違和感なく見せるために必要だ。この写真に重要なのは、その自然さだからである。この子はお利口さんであるがゆえに、その写真のほとんどは撮影者の目やご両親の目を気にしている。どことなく堅い雰囲気が漂いがちだ。しかし、私が写したいのは、「その被写体自身」である。何も気にしない自然体の美しさを演出し、表現をすることが重要だからだ。
モニターを終えたときに、ご両親から「笑っていない表情があんなに感動的なんて知りませんでした」というお言葉をいただけた。「ふとした瞬間を見逃さないでくれて」という言葉を聞けたときに、私だけの世界が、その空間にいた全員の世界に変わったような確信を得た。私だけの美しいという概念を、共通したものにするには写真に撮って共有し反復していくという過程が重要であると、こうしたときに実感する。
こうして、私だけのもの、また相手だけのものを、一緒にいるこの空間に出し合うということが、人と一緒に生きるということなのかもしれない。感動というものは、そうして生み出されるのかもしれない。
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