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京都桂店
scrollable
Photo: So naturally...
投稿日:2016/8/10
824 0
At Koshigaya No.5
Photo by Kudo / Coordinate by Takako
空には光。流れる雲と照らす太陽。夜に輝く星と月。
水は流れる。川から流れて海で波打つ。
地には雨と風と光。土は雨を吸い、命を蓄え、木は風を受けて揺れ水を受けて森となる。
自然とは、
何かの存在ひとつで自然なのではなく、その周りにあるものすべてが作用し作用され作り出されるもの。
空に太陽も雲も光もなければ不自然だし、水は流れなければ腐ってしまう。土には水分と有機物があるから生き物はそこに生きていけるし、木々は揺れも伸びもせずに止まっていたらまるで作り物みたいだ。
私たち「人」も自然のものだから、必ず周囲のものに作用し作用されながら生きている。
「人」は、「自分」と「他者」の「間」で生きている。
お互いがお互いを頼り、協力し、愛し愛されて生きている。
「人」は「人」に作用しながら生きているから、家族や友達、恋人を作るということは私たちにとってはとても自然に見える。
「人」は一人だけでは「孤独」を感じ不自然な状態であり、「一人」だけでは生まれることも生きていくこともできない。
だから、人が在るべき自然な姿とは「人」に作用し作用される姿であると私は考えます。
ライフスタジオではいわゆる「自然な写真」というものを撮るために日々撮影者は努力しています。
被写体へ何もせず、何も手も声も加えないで、被写体のそのままの姿を撮ることはどうしてか自然に見えません。
なぜならば、そのままでは「人」はその内面にあるものを何も出すことはできませんし、私たち撮影者という他者が存在しているのにも関わらず、何も作用しようとしないのは、被写体から見てみれば不自然な状況極まりないからです。
私はあまり写真館で写真を撮られた経験がなく、記憶に新しいのは20歳の時に成人式の前撮りで地元の昔からある写真館で写真を撮られたことです。
その写真館ではほぼ会話がなく、着付けとヘアメイクを済まされ、いざ撮影になるとカメラマンが煙草を吸いながら無表情な顔で「笑って」と一言言うだけの写真館でした。
当時の私は写真館という場所に行ったことのなかったので、写真館というものはこういうものかと思いましたが、今でも写真を見ると不自然な笑顔に違和感を覚えます。
その逆に自分が自然体でいられるときは、誰かに自分のことを話したり、誰かの話を聞いたりして、お互いにお互いの存在を認めリアクションをして、リアクションを見ている時なのだと思います。
それは、新しい職場に行くとよく経験をすることです。
初めは新しい職場の場所や空気感、同僚の雰囲気が新しく、まだお互いを知らない状態なので、自分を出せないと思いますが、その場所と同僚と仕事をしていくうちに慣れて打ち解けて、その場所の特性も同僚の人となりも知り、やがて自分も自然体でいることができると思います。
それは、一緒に仕事をして一緒の時を過ごすことによって、「人」と「人」とが作用し、作用される関係を築いていくから、「人」が自然な姿になることができるのです。
ここで私が言いたいことは以下です。
・「人」は内面を安心して出せる状況でないと、「自分」にも「他者」にも違和感を覚えること。
・「他者」が何者かわからないうちは「自分」を出すことができないこと。
・「人」は「人」と作用し作用されることで自然な姿になれること。
・つまり、「人」は「他者」を理解し、「他者」へ何らかのリアクションし、「他者」からリアクションを引き出した時に、お互いに自然な姿になれること。
撮影の場において、被写体にとっては、写真を撮るという行為自体が生活に結び付いていないためか違和感の塊であり、私たち初めて会う人は正体不明の不自然な存在に見えるに違いありません。
その認識能力は、年齢が低ければ低いほど敏感であり正直に表面に出て、年齢が高くなればなるほど他者への壁が厚くなり表面に出にくくなります。
ライフスタジオにおいてbaby写真がより自然に見えるというのはそのためです。
赤ちゃんは私たちへのリアクションが正直に出ます。
だから人見知りでなければ家にいる姿と同じであり、人見知りならば赤ちゃん特有の「泣く」というごく自然なリアクションをし、その姿も自然に見えます。
だから、baby写真は比較的こちらから特別な投げかけをしなくても、自然に見える写真は撮ることができます。
こちらがなにもせずに存在を消すことで自然な姿を撮ろうというにも限界があり、それは赤ちゃんといえど「人」であるため、撮影者が何もしない不自然な存在である以上はカメラに向ける眼差しには違和感がありますし、なにもしなければ、被写体は家族には自然な表情を出しても、撮影者へ向ける表情には堅さが残るままです。
だから私たちは、声で呼びかけることや何か動きを投げかけることを被写体が赤ちゃんでも止めることはありません。
そうしていくうちに被写体は、時とともに私たちにリアクションをし出し、自分を出していきます。
そうしていくことで被写体と撮影者の間に流れる空気に違和感はなくなり、お互いに自然な姿を出すことができます。
撮影の場所にいる誰もが自然な関係を築くための投げかけは、がむしゃらでもなく、パターンにはめるでもなく、しかし何か誰にでも適用可能な方法である必要があります。
私が日々、撮影で行っている方法はbabyでもkidsでも大人の撮影でもよく適用しています。
それは「何かをしてもらう」ということです。
もちろんその被写体によって何が好きか、どういう人となりか、どんな癖があるかは違うので人によって何をしてもらうかのバリエーションは変わりますが、例えば階段を昇ってもらう、高いところにあるものを取ってもらう、椅子を指示したところまで運んでもらう、靴を履いてもらう、髪をかき上げてもらう、など。
年齢やその被写体の人となりによって投げかけは様々ですが、何かを「やってもらう」ことが私からの投げかけとなり、そのことによって引き出された被写体からのリアクションを見ることができますし、被写体自身もリアクションをすることで自らを出すことができます。
この写真の被写体はbaby。
こちらの言っていることもなんとなくは察してくれますが、会話というにはまだ程遠いくらい。
よく動き自分の意思もよく表現します。
もちろんそのままでも彼女自身を撮ることはできますが、そのままでは自然な写真は撮れません。
コーディネートをし、場所を指定し、おもちゃを与える。
そういったいつものように簡単な投げかけから入り、どんどん彼女に入っていくうちに、いつものようにもっと彼女にしかない表情と動きを撮りたいと思いました。
もっと彼女自身を撮りたいと思いました。
彼女はお兄ちゃんが二人いて、遊ぶおもちゃは男の子が好きなもの。
中でも車がお気に入りで、その車で遊ぶ時が一番リラックスした彼女らしい表情が出ました。
だから車を離さないのは、彼女のアイデンティティの一部を現しています。
さらに彼女のbabyにしては少し落ち着いた雰囲気をどのようにしたら表現できるかを考えました。
それは、着ていた服を半分脱がすこと。
Babyでもkidsでも、なんらかのリアクションをするはずで、その動きに隙間に表れる彼女自身の姿を引き出したいと思い、私はそのように投げかけました。
服を半分脱がすと服を再び自分で着ようとし、babyにしては少し大人で成長の早い彼女ならではの姿を見せてくれました。
その姿は、今までのどんな姿よりも自然に見えました。
赤ちゃんらしくこちらでコーディネートして当てはめた姿よりも、私にはこの表情とこの姿がなによりもしっくりきて、とても自然に見えました。
その自然さとは、私たちがライフスタジオの撮影空間で絶えず意図的に作り出すものです。
「人」における自然さとは、在るがままの姿のことでありますが、何よりも「人」と「人」とが作用しながら生み出すものであると思います。
風と水の関係性は海の波となり、水と地の関係性は川の流れになり、風と地の関係性は揺れる木々となります。
「人」と「人」との関係性も、お互いが作用することでお互いに自然になり、人は意図的にその自然さを生み出すことのできる生き物です。
その自然さは、原始的なことでありながら、今や忘れそうになっているものでもあるから、「人」としてぎく自然になれる空間が、とても特別で、とても大切だと思うのです。
ライフスタジオは、その「特別」で「自然」な「人」として在るべき姿を表せる空間を意図的に作ることが価値だとし、そのことにいつも一生懸命になります。
私たちの言う「自然な美しい写真」とは、自ら関係を作りに向かう姿によって生み出されるものだから、私たちは決して目の前の「人」から目を背けてはいけないといつも思うのです。
Photo by Kudo / Coordinate by Takako
空には光。流れる雲と照らす太陽。夜に輝く星と月。
水は流れる。川から流れて海で波打つ。
地には雨と風と光。土は雨を吸い、命を蓄え、木は風を受けて揺れ水を受けて森となる。
自然とは、
何かの存在ひとつで自然なのではなく、その周りにあるものすべてが作用し作用され作り出されるもの。
空に太陽も雲も光もなければ不自然だし、水は流れなければ腐ってしまう。土には水分と有機物があるから生き物はそこに生きていけるし、木々は揺れも伸びもせずに止まっていたらまるで作り物みたいだ。
私たち「人」も自然のものだから、必ず周囲のものに作用し作用されながら生きている。
「人」は、「自分」と「他者」の「間」で生きている。
お互いがお互いを頼り、協力し、愛し愛されて生きている。
「人」は「人」に作用しながら生きているから、家族や友達、恋人を作るということは私たちにとってはとても自然に見える。
「人」は一人だけでは「孤独」を感じ不自然な状態であり、「一人」だけでは生まれることも生きていくこともできない。
だから、人が在るべき自然な姿とは「人」に作用し作用される姿であると私は考えます。
ライフスタジオではいわゆる「自然な写真」というものを撮るために日々撮影者は努力しています。
被写体へ何もせず、何も手も声も加えないで、被写体のそのままの姿を撮ることはどうしてか自然に見えません。
なぜならば、そのままでは「人」はその内面にあるものを何も出すことはできませんし、私たち撮影者という他者が存在しているのにも関わらず、何も作用しようとしないのは、被写体から見てみれば不自然な状況極まりないからです。
私はあまり写真館で写真を撮られた経験がなく、記憶に新しいのは20歳の時に成人式の前撮りで地元の昔からある写真館で写真を撮られたことです。
その写真館ではほぼ会話がなく、着付けとヘアメイクを済まされ、いざ撮影になるとカメラマンが煙草を吸いながら無表情な顔で「笑って」と一言言うだけの写真館でした。
当時の私は写真館という場所に行ったことのなかったので、写真館というものはこういうものかと思いましたが、今でも写真を見ると不自然な笑顔に違和感を覚えます。
その逆に自分が自然体でいられるときは、誰かに自分のことを話したり、誰かの話を聞いたりして、お互いにお互いの存在を認めリアクションをして、リアクションを見ている時なのだと思います。
それは、新しい職場に行くとよく経験をすることです。
初めは新しい職場の場所や空気感、同僚の雰囲気が新しく、まだお互いを知らない状態なので、自分を出せないと思いますが、その場所と同僚と仕事をしていくうちに慣れて打ち解けて、その場所の特性も同僚の人となりも知り、やがて自分も自然体でいることができると思います。
それは、一緒に仕事をして一緒の時を過ごすことによって、「人」と「人」とが作用し、作用される関係を築いていくから、「人」が自然な姿になることができるのです。
ここで私が言いたいことは以下です。
・「人」は内面を安心して出せる状況でないと、「自分」にも「他者」にも違和感を覚えること。
・「他者」が何者かわからないうちは「自分」を出すことができないこと。
・「人」は「人」と作用し作用されることで自然な姿になれること。
・つまり、「人」は「他者」を理解し、「他者」へ何らかのリアクションし、「他者」からリアクションを引き出した時に、お互いに自然な姿になれること。
撮影の場において、被写体にとっては、写真を撮るという行為自体が生活に結び付いていないためか違和感の塊であり、私たち初めて会う人は正体不明の不自然な存在に見えるに違いありません。
その認識能力は、年齢が低ければ低いほど敏感であり正直に表面に出て、年齢が高くなればなるほど他者への壁が厚くなり表面に出にくくなります。
ライフスタジオにおいてbaby写真がより自然に見えるというのはそのためです。
赤ちゃんは私たちへのリアクションが正直に出ます。
だから人見知りでなければ家にいる姿と同じであり、人見知りならば赤ちゃん特有の「泣く」というごく自然なリアクションをし、その姿も自然に見えます。
だから、baby写真は比較的こちらから特別な投げかけをしなくても、自然に見える写真は撮ることができます。
こちらがなにもせずに存在を消すことで自然な姿を撮ろうというにも限界があり、それは赤ちゃんといえど「人」であるため、撮影者が何もしない不自然な存在である以上はカメラに向ける眼差しには違和感がありますし、なにもしなければ、被写体は家族には自然な表情を出しても、撮影者へ向ける表情には堅さが残るままです。
だから私たちは、声で呼びかけることや何か動きを投げかけることを被写体が赤ちゃんでも止めることはありません。
そうしていくうちに被写体は、時とともに私たちにリアクションをし出し、自分を出していきます。
そうしていくことで被写体と撮影者の間に流れる空気に違和感はなくなり、お互いに自然な姿を出すことができます。
撮影の場所にいる誰もが自然な関係を築くための投げかけは、がむしゃらでもなく、パターンにはめるでもなく、しかし何か誰にでも適用可能な方法である必要があります。
私が日々、撮影で行っている方法はbabyでもkidsでも大人の撮影でもよく適用しています。
それは「何かをしてもらう」ということです。
もちろんその被写体によって何が好きか、どういう人となりか、どんな癖があるかは違うので人によって何をしてもらうかのバリエーションは変わりますが、例えば階段を昇ってもらう、高いところにあるものを取ってもらう、椅子を指示したところまで運んでもらう、靴を履いてもらう、髪をかき上げてもらう、など。
年齢やその被写体の人となりによって投げかけは様々ですが、何かを「やってもらう」ことが私からの投げかけとなり、そのことによって引き出された被写体からのリアクションを見ることができますし、被写体自身もリアクションをすることで自らを出すことができます。
この写真の被写体はbaby。
こちらの言っていることもなんとなくは察してくれますが、会話というにはまだ程遠いくらい。
よく動き自分の意思もよく表現します。
もちろんそのままでも彼女自身を撮ることはできますが、そのままでは自然な写真は撮れません。
コーディネートをし、場所を指定し、おもちゃを与える。
そういったいつものように簡単な投げかけから入り、どんどん彼女に入っていくうちに、いつものようにもっと彼女にしかない表情と動きを撮りたいと思いました。
もっと彼女自身を撮りたいと思いました。
彼女はお兄ちゃんが二人いて、遊ぶおもちゃは男の子が好きなもの。
中でも車がお気に入りで、その車で遊ぶ時が一番リラックスした彼女らしい表情が出ました。
だから車を離さないのは、彼女のアイデンティティの一部を現しています。
さらに彼女のbabyにしては少し落ち着いた雰囲気をどのようにしたら表現できるかを考えました。
それは、着ていた服を半分脱がすこと。
Babyでもkidsでも、なんらかのリアクションをするはずで、その動きに隙間に表れる彼女自身の姿を引き出したいと思い、私はそのように投げかけました。
服を半分脱がすと服を再び自分で着ようとし、babyにしては少し大人で成長の早い彼女ならではの姿を見せてくれました。
その姿は、今までのどんな姿よりも自然に見えました。
赤ちゃんらしくこちらでコーディネートして当てはめた姿よりも、私にはこの表情とこの姿がなによりもしっくりきて、とても自然に見えました。
その自然さとは、私たちがライフスタジオの撮影空間で絶えず意図的に作り出すものです。
「人」における自然さとは、在るがままの姿のことでありますが、何よりも「人」と「人」とが作用しながら生み出すものであると思います。
風と水の関係性は海の波となり、水と地の関係性は川の流れになり、風と地の関係性は揺れる木々となります。
「人」と「人」との関係性も、お互いが作用することでお互いに自然になり、人は意図的にその自然さを生み出すことのできる生き物です。
その自然さは、原始的なことでありながら、今や忘れそうになっているものでもあるから、「人」としてぎく自然になれる空間が、とても特別で、とても大切だと思うのです。
ライフスタジオは、その「特別」で「自然」な「人」として在るべき姿を表せる空間を意図的に作ることが価値だとし、そのことにいつも一生懸命になります。
私たちの言う「自然な美しい写真」とは、自ら関係を作りに向かう姿によって生み出されるものだから、私たちは決して目の前の「人」から目を背けてはいけないといつも思うのです。
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