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京都桂店
scrollable
Photo:"U" and "I"
投稿日:2015/8/31
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Photo in Urayasu
Photo by Kudo / Coordinate by Yastu
人とは一人では生きられず、人の間で生まれ、人の間で生きていくことを選択していきます。
人と人の間では、一人では知ることができないことが生まれます。
一人では、愛することも、幸せも、美しいということも、優しく生きるということも、人に真っ直ぐに在ろうということも、知ることができません。
私たちは、人の間で初めて世界を知ります。
人と人の「間」で、愛し、苦しみ、考えてこそ、初めて私たちは「人間」というのだと実感します。
だから、「人間」というのだと思います。
考えてみれば、ライフスタジオ撮影という行為一つ取っても、「人」と「人」の「間」で生きるということです。
ライフスタジオの撮影は被写体が「人」です。
私たちは、「家族の関係性」や「被写体の美しさ」を撮るために、何が「人間」らしいのかを知ることが求められます。
それは、本で勉強したことだけでは知ることができません。
実際に人と接し、何かを生み出すことでしか、人間の素晴らしさを知ることができません。
「その人らしさ」を「美しく」撮るということは、「私」という撮影者自身を通じて、被写体である「あなた」が素晴らしいということを伝えようとする行為です。
だけれど、「あなた」の素晴らしさというのは、「あなた」だけが持っているもので、同じものを他の人が持っているわけではありません。
だから、「私」は「あなた」だけの持つ素晴らしさを、「あなた」と一緒に見つけていきたいと思うのです。
それが、「私が」写真を撮るためだけでなく、「あなた」の人生に触れ、共に過ごす時間を創るということになります。
これが、ライフスタジオが日々行っている、「人」と「人」の「間」に生み出すという行為になります。
そのために、ライフスタジオでは「自分を投げ出す」という方法を取ります。
その人自身に触れたいなら、まずは自分に触れてもらうこと。
その人自身を知りたいなら、まずは自分を相手に知ってもらうこと。
それが、「人」と「人」が行為し生み出す空間を創ることになります。
「投げ出す」ことは、「私」と「あなた」が共にする時間と空間を創出する足掛かりになります。
そうして、被写体である「あなた」は徐々に姿を顕します。
「あなた」が姿を顕したら、「私」が何と応えるのか。
その応えが、「何を生み出すのか」ということになります。
それが、「愛」なのか、「楽しさ」なのか、「感動」なのか、「優しさ」なのか。
それとも、形に残る「あなた」の存在の「美しさ」なのか。
そういった何かを引き起こすものを、私たちは「人」との「間」で毎日生み出そうとしています。
「私」一人だけではできないことを、「あなた」と一緒にいることで生みだすことができる。
これが人間の素晴らしさであり、私たちが常に目指すものです。
それは人によって異なります。なぜなら、人は多様な存在だからです。
「私」と数多くの「あなた」の間で生まれる時間と経験は、一つとして同じものはありません。
だから、「私」と「あなた」の間で生まれる素晴らしい感情と記憶はこんなにも輝いて見えるのかもしれません。
だから、「私」は「あなた」を美しく、素晴らしく、見えるのかもしれません。
だから、「私」は「あなた」が生きて存在しているということを「美しく」残したいと思うのかもしれません。
ライフスタジオの写真は、一人では撮れません。
そこには、家族・被写体・コーディネーターがいます。
撮影者は撮影の空間の中で、それぞれの「人」と「人」との「間」で投げ出し、話し、応え、そして写真を生み出します。
そして、その空間でしか生み出せない写真。
それは「人」と「人」が共に生み出した写真。
そこにいる「私」と「あなた」でしか生み出せない写真。
それが「人間」らしい写真であり、「ライフスタジオ」の写真であると思うのです。
Photo by Kudo / Coordinate by Yastu
人とは一人では生きられず、人の間で生まれ、人の間で生きていくことを選択していきます。
人と人の間では、一人では知ることができないことが生まれます。
一人では、愛することも、幸せも、美しいということも、優しく生きるということも、人に真っ直ぐに在ろうということも、知ることができません。
私たちは、人の間で初めて世界を知ります。
人と人の「間」で、愛し、苦しみ、考えてこそ、初めて私たちは「人間」というのだと実感します。
だから、「人間」というのだと思います。
考えてみれば、ライフスタジオ撮影という行為一つ取っても、「人」と「人」の「間」で生きるということです。
ライフスタジオの撮影は被写体が「人」です。
私たちは、「家族の関係性」や「被写体の美しさ」を撮るために、何が「人間」らしいのかを知ることが求められます。
それは、本で勉強したことだけでは知ることができません。
実際に人と接し、何かを生み出すことでしか、人間の素晴らしさを知ることができません。
「その人らしさ」を「美しく」撮るということは、「私」という撮影者自身を通じて、被写体である「あなた」が素晴らしいということを伝えようとする行為です。
だけれど、「あなた」の素晴らしさというのは、「あなた」だけが持っているもので、同じものを他の人が持っているわけではありません。
だから、「私」は「あなた」だけの持つ素晴らしさを、「あなた」と一緒に見つけていきたいと思うのです。
それが、「私が」写真を撮るためだけでなく、「あなた」の人生に触れ、共に過ごす時間を創るということになります。
これが、ライフスタジオが日々行っている、「人」と「人」の「間」に生み出すという行為になります。
そのために、ライフスタジオでは「自分を投げ出す」という方法を取ります。
その人自身に触れたいなら、まずは自分に触れてもらうこと。
その人自身を知りたいなら、まずは自分を相手に知ってもらうこと。
それが、「人」と「人」が行為し生み出す空間を創ることになります。
「投げ出す」ことは、「私」と「あなた」が共にする時間と空間を創出する足掛かりになります。
そうして、被写体である「あなた」は徐々に姿を顕します。
「あなた」が姿を顕したら、「私」が何と応えるのか。
その応えが、「何を生み出すのか」ということになります。
それが、「愛」なのか、「楽しさ」なのか、「感動」なのか、「優しさ」なのか。
それとも、形に残る「あなた」の存在の「美しさ」なのか。
そういった何かを引き起こすものを、私たちは「人」との「間」で毎日生み出そうとしています。
「私」一人だけではできないことを、「あなた」と一緒にいることで生みだすことができる。
これが人間の素晴らしさであり、私たちが常に目指すものです。
それは人によって異なります。なぜなら、人は多様な存在だからです。
「私」と数多くの「あなた」の間で生まれる時間と経験は、一つとして同じものはありません。
だから、「私」と「あなた」の間で生まれる素晴らしい感情と記憶はこんなにも輝いて見えるのかもしれません。
だから、「私」は「あなた」を美しく、素晴らしく、見えるのかもしれません。
だから、「私」は「あなた」が生きて存在しているということを「美しく」残したいと思うのかもしれません。
ライフスタジオの写真は、一人では撮れません。
そこには、家族・被写体・コーディネーターがいます。
撮影者は撮影の空間の中で、それぞれの「人」と「人」との「間」で投げ出し、話し、応え、そして写真を生み出します。
そして、その空間でしか生み出せない写真。
それは「人」と「人」が共に生み出した写真。
そこにいる「私」と「あなた」でしか生み出せない写真。
それが「人間」らしい写真であり、「ライフスタジオ」の写真であると思うのです。
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