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京都桂店
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Photo: 存在の美
投稿日:2015/4/1
940 0
Soka No.12
Photo by Kudo / Cordi by Ouchi
「存在の美」
早朝に散歩をすると、良い収穫をすることがあります。
それは、葉に滴る朝露だったり、朝の澄んだ空気の匂いだったり、
朝日が昇り、藍色から朱色に変わる空の色のグラデーションだったり、
黄金色に照らされる川の水面だったりと、
どんなに落ち込んでいたとしても、この世界は美しいものに満ち溢れているのだと感じることができます。
数式を理解できたときに、その法則に驚くことがあります。
文を読んだときに、その表現と言葉の響きに感傷的になることがあります。
映画を観たときに、その物語が自分の現実と近くに在るような気がして、
まるでその物語が自分のことのように感動することがあります。
良い音楽を聴くと、その旋律に心地よい調和を感じることがあります。
美術館にいくと、絵画やオブジェに宿る魂を感じることがあります。
誰かと話をするとその人の哲学や価値観を知り、その姿に尊敬をすることがあります。
こうして、自分の内面の感覚に触れる「何か」を、人は「美しい」と言うのかもしれません。
この世にある「美しい」という概念は、範囲が広く、とても多様性に富んでいるように見えます。
「美」とは広範囲に及び人によって感じることに差異がある概念にも関わらず、
私たちはこの「美」という概念を共感することができます。
それは、私たちが人間であるがゆえに、認識ができるのだと思います。
それが「美しい」と感じるのは、そのものの存在を感じることができるからなのだと。
もし、その「存在」を認識することができなければ、「美しい」という概念すら無いのではないでしょうか。
その「存在」を認識するということは、自身にとって道具のような「役に立つもの」ではなく、
また、「ただそこにいる」というだけの対象としての認識でもなく、
その「存在」が何であり誰であるのかを知っているということです。
「美しい」というものは、調和が取れていたり、心地よいと感じるものであったり、感動するものであったりと、
必ずプラスのイメージがあります。
ですので、「美しい」とは良さを認識することであると思います。
私たちは、風景にしても、概念にしても、形にしても、音にしても、
その「存在の良さ」を認識したときに「美しい」と感じるのではないのでしょうか。
私たちが毎日取り組んでいる撮影の中で、最も「存在」として際立っているものは「被写体」であり、
「被写体」とは、目の前にいる「その人」です。
私たちは、「美しい写真」をお客様に提供することが求められています。
「美しい写真」には、構図・インテリア・光の技術が求められますが、それは何のためかというと、
「その人」の「存在」を美しく表現するためであると考えます。
「人の存在」の美しさは常に内包されているものであり、それは他者から認識されたときに顕れるものです。
私たち撮影者は写真というツールを使って、「その人の存在」を美しく表現し、
その人が内包している「その人だけの存在の美しさ」を伝えることができます。
「人」という存在を「美しい」ものであると認識するには、その人の存在の良さを知ること。
その人が「誰」であるのかを知ること。
その人の美しさを引き出すために、
どのような関係性を築くのか。
どのような光で撮るのか。
どのような角度で撮るのか。
どんな構図で撮るのか。
写真と75cutにどのようなストーリーを描くのか。
それらを常に選択し、条件を作り、美しさを引き出すということが、
その人の存在の良さを認識し、それを表現していくという過程になります。
それは、「その人がそこに存在しているから美しい」ということを表現していく過程が
「人に入る」ということになるのだと私は思います。
人は皆、美しい存在です。
そう思えるかどうかは、私たちの認識次第なのだと思います。
「あなたがそこにいるから良いのだ」と、
そう言えるから、この世界は美しいのだと思います。
Photo by Kudo / Cordi by Ouchi
「存在の美」
早朝に散歩をすると、良い収穫をすることがあります。
それは、葉に滴る朝露だったり、朝の澄んだ空気の匂いだったり、
朝日が昇り、藍色から朱色に変わる空の色のグラデーションだったり、
黄金色に照らされる川の水面だったりと、
どんなに落ち込んでいたとしても、この世界は美しいものに満ち溢れているのだと感じることができます。
数式を理解できたときに、その法則に驚くことがあります。
文を読んだときに、その表現と言葉の響きに感傷的になることがあります。
映画を観たときに、その物語が自分の現実と近くに在るような気がして、
まるでその物語が自分のことのように感動することがあります。
良い音楽を聴くと、その旋律に心地よい調和を感じることがあります。
美術館にいくと、絵画やオブジェに宿る魂を感じることがあります。
誰かと話をするとその人の哲学や価値観を知り、その姿に尊敬をすることがあります。
こうして、自分の内面の感覚に触れる「何か」を、人は「美しい」と言うのかもしれません。
この世にある「美しい」という概念は、範囲が広く、とても多様性に富んでいるように見えます。
「美」とは広範囲に及び人によって感じることに差異がある概念にも関わらず、
私たちはこの「美」という概念を共感することができます。
それは、私たちが人間であるがゆえに、認識ができるのだと思います。
それが「美しい」と感じるのは、そのものの存在を感じることができるからなのだと。
もし、その「存在」を認識することができなければ、「美しい」という概念すら無いのではないでしょうか。
その「存在」を認識するということは、自身にとって道具のような「役に立つもの」ではなく、
また、「ただそこにいる」というだけの対象としての認識でもなく、
その「存在」が何であり誰であるのかを知っているということです。
「美しい」というものは、調和が取れていたり、心地よいと感じるものであったり、感動するものであったりと、
必ずプラスのイメージがあります。
ですので、「美しい」とは良さを認識することであると思います。
私たちは、風景にしても、概念にしても、形にしても、音にしても、
その「存在の良さ」を認識したときに「美しい」と感じるのではないのでしょうか。
私たちが毎日取り組んでいる撮影の中で、最も「存在」として際立っているものは「被写体」であり、
「被写体」とは、目の前にいる「その人」です。
私たちは、「美しい写真」をお客様に提供することが求められています。
「美しい写真」には、構図・インテリア・光の技術が求められますが、それは何のためかというと、
「その人」の「存在」を美しく表現するためであると考えます。
「人の存在」の美しさは常に内包されているものであり、それは他者から認識されたときに顕れるものです。
私たち撮影者は写真というツールを使って、「その人の存在」を美しく表現し、
その人が内包している「その人だけの存在の美しさ」を伝えることができます。
「人」という存在を「美しい」ものであると認識するには、その人の存在の良さを知ること。
その人が「誰」であるのかを知ること。
その人の美しさを引き出すために、
どのような関係性を築くのか。
どのような光で撮るのか。
どのような角度で撮るのか。
どんな構図で撮るのか。
写真と75cutにどのようなストーリーを描くのか。
それらを常に選択し、条件を作り、美しさを引き出すということが、
その人の存在の良さを認識し、それを表現していくという過程になります。
それは、「その人がそこに存在しているから美しい」ということを表現していく過程が
「人に入る」ということになるのだと私は思います。
人は皆、美しい存在です。
そう思えるかどうかは、私たちの認識次第なのだと思います。
「あなたがそこにいるから良いのだ」と、
そう言えるから、この世界は美しいのだと思います。
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