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越谷店
公共哲学からの応答 韓国士官P5
投稿日:2012/9/20
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公共哲学からの応答
著者:山脇直司
Center:蒔田高徳
この本を図書館で借りた。以前読んだ「公共性」という本で公共性について学んだが、もっと公共性という言葉、それ自体を学ぶ必要性を感じたのだろう。この本が視界に入った時既に借りることを決めた。
公共哲学という学問
1善き公正な社会を追求するビジョンや行動指針
2現下で起こっている公共諸問題を市民と共に対等な立場で論じ合い、そこでの要求を政策にリンクさせる実践性
の二つの要素をもつ思想であり学問だと著者は言う。
アリストテレスは彼が実践学と呼ぶ【ニコマコス倫理学、政治学、弁論術】の中で人々の最高善=幸福が実現されるような善き公正な社会について論考した。東アジアでは孟子は、仁義礼智信に基づく王道をベースにして、善き公正な社会を論じた。そしてその後、東西の政治思想や社会思想の諸伝統の中で、様々な論者が「善き公正な社会」はどのようなものかについて語ってきた。そして、それ故に、「互いに競合・論争」し合う潮流が生まれている。英語圏の思想では、功利主義、リベラリズム、コミュニタリアニズムが独自の公共哲学を展開し、批判し合っている。最近功利主義とリベラリズムを批判したマイケル・サンデルが有名になった。いずれにせよ、現代の善き公正な社会を論じる場合、福祉、正義、人権、共通善などが重要な価値理念として欠かせない。これらの価値理念の内実をどのように理解するのかが、公共哲学の重要なテーマだ。これらを一から学ぶのはしんどいが、ライフスタジオではこれらの哲学を、また自分たちの哲学、正義、共通善を探そうとしてきた。結果、それは「人」に向かっていくことだということらしい。もう一度、色々なことを思い出しながら、この本を読んでみる。
原発問題
3.11後に、原発は大きく人々の見方を変えることになる。原発はそれ自体が問題視されるようになった。しかし、それ以前は原発に非を唱える日本人は、非常に限られていた。そして、原発こそが地球温暖化問題を乗り越えるための環境にやさしいエネルギーの源であり、日本は原発技術の大国になって、世界をリードしていくべきだという論調が主流だった。今は、どこの国も3.11の惨状を目の当たりにし、原発を廃止へと向かわせようとしている。私個人は、それでいいと思っている。しかし、それでも原発というビジネスを止められない、いや、止めたくない人たちの抵抗、またメディア、政治への操作、圧力があるだろう。それを本当のメディアが、公共にさらしていかなければならない。公共が操作されてはならない。政治家はもっと私利に徹するのではなく、公共に徹した政治家も必要だ。
そのようになってくる時、そんなことを言って批判するなら、私自身がどう動くべきかなのかを考えるようになる。
高木仁三郎の公共論
原発問題が度重なって起こるのは、個人の中に見る「公」の無さを指摘しているが、私たちの社会でも政治家の発言、スポーツ選手の気持ちの高ぶりからの試合とは関係のない政治的な行動、twitterで考えなしに公の意識を持たずにつぶやいた事などから、オリンピック出場権を剥奪される選手。
個人の公の意識の無さの指摘は原発問題だけでなく、今様々な社会で見られる。人間の持っている、個人を超えたある種の普遍性、そういう「公、Public」の意識がどこにあるのか、無いのか、その普遍的な意識の欠落が、お粗末な事故を生んでいる根本の原因になっているのではないかということを指摘している。そして「公益」とは何なのかが企業や組織の枠を離れていつも個人に問われているのが技術だという。
-会社の中で生きていこうとすれば、私企業の利益と公共性との間にどのようにして折り合いをつけるのか、いつも緊張感のある努力をしていく必要がある。けれど、そのような意識が、今は無くなってしまっているのではないか。科学技術の客観性ということのなかに、最初から事故が抜け落ちて、自己のない非常に冷たい客観性みたいなものが、あたかも公共性、公益性というように考えられ、それがそのまま企業のプロジェクトに結びついて、与えられた仕事を忠実にやっていればいいというような没個性的な人間をつくってきている。企業の側も積極的にそのように人間を教育してしまっている。
アニメで昔、「未来少年コナン」を見ていたが、3.11の大地震の後の原発問題を見た時、世界中にある原発に不安を覚えたと同時に、未来少年コナンのストーリーとはまた違うにせよ、地球は人類の手でダメになってしまうような未来を見てしまった気がした。原子力産業の実態も、東京電力の組織を見ていても、国を見ていても「議論なし、批判なし、思想なし」このように思われてしまう。公共的意識を欠いた人々の集合体が現在の日本であるとしたら、恐ろしいことだ。
公益性という言葉でナショナリズムも弄ばれている
公益性という名の下に国家の定義をし、それに批判する勢力には公益性はないというような思考論理でものごとが利用され進められている。ナショナリズムもメディアも本来は公共性のものでありながら、一方に利用されている。人々が求めるものは何かというところから出発するのではなく、国家の法律の中にどう定義されているか、それを守る機関はどういう組織であるのかから出発して、その組織に従うことが公益であるかのような、考えない頭の公益論ができてしまっている。これでは文化も教育も間違ってしまう。ましてや個人の倫理などは、こういうところでは成立しない。「国家が決めたのだから、それが公益だ」と考えている役人、官僚の精神構造が日本の今を作ってしまったのだ。それを放置した国民も悪いと思う。そこに本当の「公」を定義しなければならない。「国家組織による公益の私物化」を本格的に公の場にさらさなければならない。メディアも広告主に逆らえず、本来のメディアの役割は果たせず、私的なメディアコントロールがなされ公の立場を果たせずにいる。
公共善、共通善
現在の私たちの日本の社会制度は、本来は公共善、共通善を追求していたのかもしれないが、ところどころに、公共悪が出てきている。公共善の実現と、公共悪の除去は、「公共政策の核心的な倫理的課題」だ。それは私たちの会社という小さな社会でも同じである。
多次元的・応答的・生成的な「自己―他者―公共世界」の理解
各自がまず自己を理解すること、そして「他者」を理解すること、そして「公共世界」を理解すること。公共世界とは、家族や友人などとの親密な世界、(親密圏)とは異なり、「身内以外の第三者と何らかの価値理念を媒介として成り立つ世界」を意味する。そこに公共的ルールや社会制度も含まれている。これらは、個々がそれぞれではなく、互いに応答し合う形で実現されなければならない。各自が応答し合うことで、「自己―他者―公共世界」
理解は、新たに生成される。自己が自己の外に出て異質な他者と出会い、時には自己を見失いながらも、異質な他者を相互承認し合う形で、新たに自己を生成させ、公共世界の理解を深化させていく。そのような仕組み、そのような社会の流れ、組織の流れ、それらは互いに応答を必要としている。
公共哲学からの応答というタイトルを見た時、そう、私が求めていたタイトルだと感じた。私も、この私の小さな社会、会社の中で互いに応答し合える組織を目指している。
この本は図書館で3ヶ月に渡り借りていた。長い間読んでは閉じを繰り返したが、ようやく図書館に返却する。公共哲学からの応答。その応答という言葉に私は反応した。私たちの小さな社会にも応答が必要だ。
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