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越谷店
資本主義と自由 士官学校P11
投稿日:2012/6/26
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資本主義と自由
著者:Milton Friedman
Center:蒔田高徳
この本のタイトルに自由という言葉があった。どんな自由が規定されているのか気になってこの本を手にした。本を読んでも、なんだか自由ということがよくわからない。さまざまな自由が語られながらも、本当の自由とはなんだろうかとまだ考えてしまう。
著者の言葉で「自分を本当に説得できるのは自分だけである。暇をみつけては問題点をじっくりと検討し、いろいろな意見を考慮に入れ、煮詰めていくことが必要だ。漠然と選んだ考えを確信に昇華させるには、そうして長い時間をかけなければならない」この文章に、今の自分を重ねてみる。長い時間をかけたくはないが、漠然と選んだ考えを確信に昇華させるには、行動に対しての結果は、結果が出るまでは仮説であり、またその過程には時間がかかりそうだ。しかし、未来は誰かに決定されているものではない。だから、その確定されたことでない未来には自由がありそうだ。そして、現在における自分の時間の中に、「選択の自由」というものが存在する。その選択の自由を選択した結果、未来が作られていく。
本の第二章に、全体主義社会に対する批判として、そこでは目的による手段の正当化が行われるているから、ということがよく言われるとある。だが文字通りに受け取るなら、この批判は論理的ではない。目的以外に手段を正当化できるものは有り得ないからだ。だからと言って、全体主義を批判するなというつもりはない。目的による手段の正当化に対する批判は、要はその目的が本来目指すべきものではないという主張なのであり、しあかるべき手段を使うことそのものを目指すべきだという主張なのである。悪い手段に頼らないと達成できないような目的は、たとえどれほど望ましい目的であっても、良い手段を使うというもっと大きな目的に道を譲らなければならない。
自由主義にとてよい手段は、自由な討論と自発的な協力である。強制は、どんな形であれよくない。責任のある個人が自由な議論を尽くしたのちに合意に達すること、これが自由主義者にとっての理想なのだ。そして、またこれは自由という目標のもうひとつの形だ。
この観点からみたときの市場の役割は、すでに述べたように、強制によらずに合意を導く役割を果たすことである。
強制によらずに、合意を導くとなると考える時、私たちが自由意思で持って自らと社会と合意を成していければ、そこには自由意思による変化・発展ができるのだろうか。
本の中で「自由は、責任ある個人だけが要求できるものである。狂人や子供の自由に正当性があるとは考えない。したがって、責任ある個人とそれ以外との間に線引きをしなければならないが、この時点ですでに、自由という目標には本質的な曖昧さが潜んでいる。」とあるが、自由という目標には本質的な曖昧さが潜んでいて、だからこそどこか魅力的でその自由をつかむために、人はもがくのではないだろうか。自由は下手をすると、それは自由と呼ばれながら、もてはやされる罠となる。自由を罠ではなく、自らの内面的なインセンティブとした時、その過程もその結果も自由だと心から感じることが出来れば幸せではないだろうか
自由主義と平等主義
自由主義思想の根本にあるのは、個人の尊重である。自由主義では、各自が自分の考えに従ってその能力と機会を最大限に生かす自由を尊重し、このとき、他人が同じことをする自由を阻害しないことだけを条件とする。このことは、ある点では平等を、ある点では不平等を支持する事を意味する。人は等しく自由権を持っている。この権利がきわめて重要な基本的権利なのは、人間が一人一人みな違うからであり、自分の自由でもって人と違うことをしようとするからだ。そして人と違うことをする過程で、大勢が暮らす社会のあり方に、一層多くの貢献をする可能性がある。
だから自由主義者は、権利の平等・機会の平等と、物質的平等・結果の平等との間に厳然と一線を引く。自由な社会が他の社会より多くの物質的平等をもたらすのは喜ばしいことではあるが、自由主義者にとってそれはあくまで自由社会の副産物であって、自由主義を正当化するものではない。自由と平等を促進するような政策、たとえば独占を排除して市場機能を強化するような政策こそ、自由主義者にとっては好ましい。不運な人々を助けるための慈善活動は、自由の生かし方として自由主義者にとって好ましい。貧困をなくすための政府の事業も、多くの市民にとっての共通目標を達成する効率的な手段として、自由主義者は是認するだろう。―ただし、自発的な行動ではなく政府による強制に委ねることを残念に思いながら・・・。
ここまでは、平等主義者も同じであろう。だが、平等主義者はさらに一歩踏み出そうとする。彼らが「誰かから取り上げて別の誰かにあげる」ことを認めるのは、目標を達成するための効率的な手段だからではなく、「正義」だからだ。この点に立ち返った時、平等は自由と真っ向から対立する。ここでは平等か自由のどちらかしか選べない。この意味で平等主義者であると同時に自由主義者であることはできないのである。
本を最後まで読み終えて、驚いたのはこの本は1962年に出版された本であるということだった。てっきり、私は現代の経済問題を論じていると錯覚していた。
そのように思うとき、フリードマンの視点のすごさに驚くのだった。
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