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イノベーターの条件 静岡P92

投稿日:2012/5/29

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イノベーターの条件

著:P・F・ドラッカー

Center:蒔田高徳

 5月湘南店の朴社長から唐突な質問をされた。「変化発展が何でいいのか?それを言えるか?」あまりうまく答えられなかった。「変化」について今月は考えていた。なぜ「変化」を良きものとして、ライフスタジオはその言葉を選んでいるのか。その答えは今月、自分の中に明確なものが出たのだが、それが正しいのかはわからないが私が規定する変化は、変化を通して「より自由になる為に」ということだった。そうすると、今度は「自由」というものを必然的に規定しなければならないだろう。なぜならまた、自由意思という言葉が私たちの会社ではよく使われている。それをまた良いものだと私たちの会社では考えているのだ。

 ドラッカーのこの本を手にしたのは「変化・発展」という言葉を思いながら連想したのは、この人だったのだ。図書館に行って、イノベーターの条件の本に手がのびたのは偶然ではない。今日、これまでのものとはまったく異質の新しい経済が出現したということで、「ニューエコノミー」なるものが論じられている。だが、誰も論じてはいないが、新しい社会としての「ニューソサエティー」の出現の方が、はるかに重要であると本の冒頭から書かれている。ライフスタジオに経済的な視点を置いて見た時、それが特別ニューエコノミーではないと思う。むしろ、注目すべきはドラッカーが言うように「ニューソサエティー」の部分だ。それを私たちは今も議論している。会社や給料は誰か特定の人、社長だけが考えるものではなく、そこにいる人すべてが考えるものとして。もちろんいろんな決定の部分において、社長という役割で話さなければならないことはあるが、同じ社会で働くものとして、それはどちらか一方だけが考えるものではなく互いに考えていこうとしている。私達は最初そういう提案をされると、その思考は、人任せにしている部分があり、思考停止に陥る。しかし、思考停止してはいけない。私たちにはいつも自由の扉が開かれている。21世紀の社会が20世紀の社会とは大きく違うものになっていることは明らかである。

新しい現実や問題と機会がどのようなものとなり、その変化の要因となるものがある。これらの新しい現実、新しい問題と機会、新しい変化の要因がこの本で分析され論じられている。それはけして過去のものだけでなく、これからの未来の為に、社会的なイノベーションに必要な洞察、理解、ビジョンを我々に視野を広げさてくれる。

 

  • 社会の存在を当然としてはならない

この本の始まりのタイトルは強力なタイトルだ。こういったタイトルが私たちの頭の中にも常になければならないのだと思う。しかしながら、私たちの頭は過去の決定や慣習に従い、何かを変化しイノベーションをすることができずにいる。

「社会」とは何か

 人は、生物的存在として生きるために呼吸する空気を必要とするように、社会的存在として生きる為に機能する社会を必要としている。しかし社会を必要とするということは、必ずしも社会を手にしているという意味ではない。難破船でパニックに陥っている人たちを社会とは言わない。集団ではあるが、社会ではない。現にパニックは社会の崩壊によってもたらされる。パニックを克服するには、価値、規律、権力、組織を備えた社会を回復させるしかない。社会を定義することは、生命を定義することと同じように難しい、われわれはあまりに社会に近いために、些事の賑やかさと複雑さに目を奪われ、社会の基本さえも見えない状態だ。さらには、社会の一部となっている為に、その全体が見えない。新自由主義の勢力の中にいたとしても、その状態がなんであるのかを、よくわからずにいるような状態だ。われわれは、社会を定義することはできなくても、その機能の面から社会を理解することはできる。社会は、一人一人の人間に「位置づけ」と「役割」を与え、そこにある権力が「正当性」を持つとき、はじめて機能する。個人の位置づけと役割は、社会の枠組みすなわち社会の目的と意味を規定する。権力の正当性は、その枠組みのなかの空間を規定する。すなわち社会を制度化し諸処の機関を生み出す。憲法や法律でさえ、決定的な権力がどこにあるかについては、ほとんどあるいは全く教えていない。言い換えると、決定的な権力とは、政府と同義ではない。ここにいう決定的な権力とは、社会的な権力であり、政府の権力とは法的な権力である。

 正統ならざる権力

正統ならざる権力とは、社会の基本理念にもとづかない権力である。したがって、正統ならざる権力を手にした支配者は、その権力の行使を保証されない。その権力には社会的な理念、目的が伴わないからである。

 しかも、正統ならざる権力は制御できない。その本質からして制御不能である。そのような権力には、責任の基準が存在しないがゆえに、すなわち正当化に必要な権威が存在しないがゆえに、何ものに対しても責任を負わない。正統ならざるものに責任は、ありえない。同じ理由により、正統ならざる権力には限界がない。権力の行使に限界を設けるということは、権力が正統でなくなる限界、すなわち社会的な目的を達成できなくなる限界を設けることである。しかし、最初から正統性をもたなければ、正統でなくなる限界そのものが存在しない。さらに、正統性なき支配者は、よい支配者とも優れた支配者ともなることができない。正統ならざる権力は必ず腐敗する。なぜなら、それは単なる権勢にすぎず、権威とはなりえないからである。制御不能であって、無制限、無責任である。したがって、それは正統性からどんどん離れていく。

 今日の誤りは、秩序なき大衆への賛美である。無秩序の大衆は社会の解体の結果にすぎず、腐敗物に過ぎない。チョムスキーの「メディアコントロール」の著書でも同じようなことが書かれていた。真の危険は体臭の反逆にあるのではない。反逆もまた、単なる抵抗にすぎないかもしれないが、社会への参画の一形態である。危険は、価値や制度が存在しないために、社会への参画が不可能になることにある。無関心となり、しらけ、絶望に至ることにある。

大衆にとって社会はそこに自らの位置づけと役割がなければ、不合理で理解不能な魔物以外のなにものでもない。さらに、そこにおける権力に正統性がなければ、専制、専横以外の何ものでもない。そのとき、彼らは不合理の魔力に従う。変化を約束する者でありさせすれば、専横の独裁者にさせ身を投げ出す。社会をもたない大衆は失うものがない。束縛するものさえない。しかも、理念をもたない大衆は、彼らを思いのままにしようとする専制者に対して、抵抗すべき組織的基盤をもたない。

一人ひとりの人間が社会的な位置づけと役割を与えられなければ、社会は成立しえず、大量の分子が目的も目標もなく飛回るだけとなる。他方、権力に正統性がなければ、絆としての社会はありえない。奴隷制、あるいは単に惰性の支配する真空があるだけとなる。

この指摘は、今の日本にも大きく当てはまるだろう。権力に正当性がなければ絆としての社会はありえない。今回の大震災で「社会の絆」を感じる面があったが、政府の動き、機能としての能力は、今を持ってしても特別目立っていない。むしろ、お役所的な体制から抜け出せない東京電力をより国のものにして、今後どうするのか、日本の政治は決定がすそく遠く、重要なところでスピード感が感じられない。権力の正当性はあまり感じられない。惰性が支配する真空状態なのかもしれない。それは、私たち社会の実情が政治の世界にも現れているのだろう。日本の社会全体が、惰性の支配する真空状態から抜け出さないといけない。そして、もっと社会に参加していくことで、ただ政治を批判するのではなく、互いにより良い社会に向かっていくべきだ。

 

 

 経済的な自由は平等をもたらさない

自らの利益を最大にすべく行動するという経済的な自由の本質が、社会的な価値を失った。経済的な価値の最優先が人間の本性であるかそうでないかは関係ない。大衆は、経済的な自由が恵まれざる者の存在をなくすことができなかったために、それを社会的に有益なものと考えることを止めた。

 自由の放棄による絶望からの開放

大衆は、世界に合理をもたらすことを約束してくれるのであれば、自由の放棄もやむを得ないと覚悟した。自由が平等をもたらさないならば、自由を捨てる。自由が安定をもたらさないならば、安定を選ぶ。自由によって魔物を退治できないとなれば、自由があるかないかは二義的にすぎない。自由が魔物の脅威を招くのであれば、自由の放棄によって絶望からの開放を求める。ヨーロッパの全歴史を通じて、自由とは、つまるところ、常に個人の自由を意味してきた。選択の自由、良心の自由、信仰の自由、政治的な自由、経済的な自由などすべての自由が、多数派に対する少数派の自由、社会に対する個人お自由を意味していた。しかし、現在言われている新しい自由は、個々の人間に対する多数派の権利である。

だが、多数派による無制限の自由の行使は自由ではない。それは専横である。

社会を分析するこの本の中でも「自由」に対しての文章が目を引く。私自身が次に「自由」というものを規定しようとしているからだ。人は、社会は絶えず自由を探し求めてきながら、不自由となっていたのだろう。でも、その流れを見るときに、自分自身も同じ状態でもがいているのを見たとき、変化・発展していくことが自分自身をより自由になるためにと理解した時、私ははじめて自由になれたような気がした。そして知識労働者となることが、より自由に近づく道であるというような気がしてくるのだ。

 

知識社会では、従業員すなわち知識労働者が、自ら生産手段を所有する。

 

マネジメントの意味が変わった

 マネジメントたるものは、組織の中野それぞれ異なる知識をもつ人間同士が共同で成果をあげられるようにしなければならない。人間の強みを生産的なものにし、弱みを意味のないものにしなければならない。いかなる成果が求められているかを考え抜かなければならない。そして、目標を明確にしなければならない。私の勤務している「ブレインセンター」が「事業の定義」と呼ぶものを考え抜かなければならない。組織が行うこと、あるいは行わないことを決定するうえで必要な前提を明らかにしなければならない。戦略、すなわち組織の目的を実際の仕事に転化するうえで必要となるものについて、考え抜かなければならない。組織にとっての価値、報酬と罰、気風と文化を確立しなければならない。組織において、マネジメントたるものは、自らの組織とその目的、価値、環境、市場、強みを知らなければならない。仕事としてのマネジメント、体系としてのマネジメントを知らなければならない。

 

 社会的、政治的イノベーションの必要性

現在は21世紀だ。これからやってくる問題は社会的、経済的、政治的に、絶えざる混乱と挑戦の時代となる。20世紀に既に起きた社会転換が突きつけている問題よりもさらに深刻であり、さらに途方にくれるものだ。しかし、われわれはすでに起こった現実が提起している問題、現在の問題を解決しておかないことには、それらの迫り来る新しい問題を解決する可能性すらもちえない。それら現在の問題こそ、最優先として取り組むべきである。なぜならば、それらの問題に取り組むことによって初めて、迫り来る新しい問題に取り組むうえで必要とされる社会的な一体性、機能する経済、能力わる政府を手にすることができるからだ。今日、あらゆる社会学者、政治学者、経済学者、教育者、企業人、政治家、NPOのリーダーたちにとって、また、あらゆる職業の人間、父親、母親、組織の従業員、市民にとって、まず行うべきことは、それら今日の最優先課題に取り組むことである。20世紀が社会転換の世紀であったとするならば、21世紀は社会的イノベーション、政治的イノベーションの世紀とならなければならない。

 

 組織というものは、それ自身のために存在するものではない。それは手段である。それぞれの社会的な課題を担う社会のための機関である。生き物のように、自らの生存そのものを至上の目的とすることはできない。組織の目的は社会に対する貢献である。その評価基準は、生き物とは違い、自らの外部にある。したがってわれわれが組織の理論を必要とする第一の側面は、組織の機能のうち目的に関わる側面である。自らの目的をいかに定めるか、成果を上げるために、いかにエネルギーを動員するか。成果をいかに測定するか。なすべきことが何であり、なしたことをいかに評価すべきかが分からなければ、組織の構造を設計することもできない。

 この本から、わたしたちの社会、組織、また個人を今までとは違った目で見るようになる。そして、自由意思を持って知識労働者となること、その集団になることが、より自由な風の匂いを感じるのは気のせいだろうか。

今のタイミングでこの本と出会ったことに感謝しながら、ドラッカーの著書を図書館に返すのを惜しむ。

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