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越谷店
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公共性 静岡P91

投稿日:2012/5/28

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公共性

著:斉藤純一

Center:蒔田高徳

 この本のはじめにある言葉、ハンナ・アーレントの言葉。

『自由が出現したのは・・・彼らが「挑戦者」となり、自らイニシアティブをとり、そのことによってそれと知ることも気づくこともなしに、自由が姿を表すことのできる公共的空間を彼らの間に創造し始めたからである。「私たちが一緒に食事をとるたびに自由は食席に招かれている。椅子は空いたままだが席はもうけてある」

ライフスタジオでは自由意志という言葉があり、その中には自由という言葉がある。自由が出現したのは・・・と続くように私たちが挑戦者となり、自らイニシアティヴをとり、自由が姿を表すことの出来る公共的空間を私たちの間に創造し始めることができれば、わたしたちの椅子には自由が同席しているはずだ。

 アーレントは、公共的空間のない状態は、公共性が失われた正の境遇を「私的」(private)と言う語によって形容している。「私的」であるということは他者の存在が失われていることを意味する。この表現は、いろんな現場にあてはまると思う。公共的空間から「場所、存在」を奪われた人々を指すだろう。私たちの政治などを見ても、本来は「公」であるはずのものが、やたらと「私」が見え隠れするようなありさまである。公共的空間における十分な議論を減るべき重大な争点について、政府与党の意思が市民社会によるさほどの抵抗を受けることもなく通過してしまう事態がある。そして、政治を傍観している私たちこそ、「公」に対する意識がなく、「私的」であることだけに時間が集中しているのだと思う。それを本の中の言葉では「時間的貧困」の状態にあると呼んでいる。

 

 公共的空間とは自らの「行為」と「意見」に対して応答が返される空間であるという。ライフスタジオでの公共的空間は討論の現場があるだろう、そこにはタブーがあるわけでもなく、質問にたいしての応答が繰り返される。あまり、上手に討論ができないと質問と疑問だけが宙に舞ってしまうが、そこは公共的空間が存在していると言えよう。私たちの利用するホームページも公共の空間と呼べるだろう。そこはオープンに開かれており、顧客はそこから予約を取る。私たちは顧客管理のシステムというわたしたちスタジオ間の共用のツールを使い、業務内容の引き継ぎ、新しく内容の追加を行うことができる。全体掲示板などのボードの使用などもある。その空間も行為と応答が返される空間である。

他にも越谷店では食堂も公共的空間だと言えるだろう。別に閉ざされた空間として何かを限定しているわけではない。私たちが普段から便利に利用するインターネットの世界も公共性がある。その公共性が誰でも接続しオープンな状態にある為、「私的」なものと区別して守られるべきものが守られなければならないとプライバシーの侵害となる。だからこそインターネットにオープンになる情報というものには、その利用はとても簡単で便利であるが、瞬間的に公共のものになるという意識を持って扱わなければならないだろう。

 公共性を3つに大きく大別

1(official)国家に関係する公的なものと言う意味。この意味での公共性は強制、

権力、義務といった響きを持つ

2(common)特定の誰かにではなく、すべての人々に関係する共通のものと言う意味。この意味での公共性は共通の利益、財産、共通に妥当すべき規範、共通の関心事など。公共の福祉、公益、公共の秩序、公共心など

3(open)この意味での公共性は誰もがアクセスすることを拒まれない空間や情報などを指す。公然、情報公開、公園などの言葉、秘密、プライヴァシーなどと対比される。

 

 ライフスタジオでこの3つの公共性を見てみると、1、2、3のもの全てがあてはまる。

本社では、2の内容について、給料のことについて特定の誰かが給料を考えるのではなく皆で情報をオープンにして考えてみた。評価をする基準を設けることは簡単なことではないが、その公共性を理解し、皆で考えていこうとしている。そして、給料フェスティバルが年に二回行われることになりそうだ。

3の内容、開かれている私たちの扉をたたくのは、私たち個人に委ねられている。せっかく扉が開いているのだから、これを利用、活用しなければならない。私たちは情報や考えが限定されるのでなく、より開かれたかたちでいる。

 

「人」という漢字の文字があり、また「人間」と言う漢字の文字がある。人と人の間と書いて「人間」と書くように、

その人と人との「間」を考えていくことが公共性であり社会だと思う。

私たちは互いに人間であり、同じ人間であるという定義のもとに、世界の裏側を他人にせず、貧困や飢餓にあえぐ人を他と見るのではなく、私たち人間の間にある公共性を考えながらその中にある「自由」とは何なのかを問いながら、けして「私的」な利益をあげることで他の人が苦しむのは当たり前のように見ている新自由主義の偏りには、人間が自由なのではなく、資本を持つものが自由になれる主義というところが見える。自由と幸福はいつでも人の目標であるが、その目的と手段が区別がつかず私的だけになれば、それが人間のたどり着く正解ではないないことがわかるはずだ。私たちの社会が絶えず変化を繰り返してきたように、その会話の中で「公共性」というものが、その意味を間違えずにもっと入っていくことができたなら私たちの社会はもっとよりよくなれると思うのだ。その為にも、私たちは日々の生活の中で「時間的貧困状態」から脱却する必要がある。そしてまた、自由を探すだろう。

 

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