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メディア・コントロール―正義なき民主主義と国際社会 静岡P90

投稿日:2012/5/27

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メディア・コントロール―正義なき民主主義と国際社会

Noam Chomsky

Center:蒔田高徳

 対立する民主主義社会の概念 

「民主的」という言葉をどういう意味で用いるか。民主主義社会に関するひとつの概念は、一般の人々が自分たちの問題を自分たちで考え、その決定にそれなりの影響をおよぼせる手段を持っていて、情報へのアクセスが開かれている環境にある社会ということである。

 もう一つの概念は、一般の人々を彼ら自身の問題に決して関わらせてはならず、情報へのアクセスは一部の人間の間だけで厳重に管理しておかなければならないとするものだ。チョムスキーは実は優勢なのは後者なのだと言う。メディアはコントロールされ、メディアは買われてしまった。国家による組織的宣伝、世論を操作する。

 ウォルターリップマンのエッセイ

 「民主主義の革命的技法」を使えば「合意のでっちあげ」ができる。新しい宣伝技術を駆使すれば、人々が本来望んでいなかったことについても同意をとりつけられるというわけだ。彼はこれをよい考えだと思ったし、必要だとさえ思っていた。なぜならば「公益に関することが世論から抜け落ちている」ように、公益を理解して実現できるのは、それだけの知性を持った「責任感」のある「特別な人間たち」だけだと考えていたからである。この理論からすると、万人のためになる公益は少数のエリートちょうどデューイ派が言っていたような知識階層だけにしか理解できず、「一般市民にはわからない」ということになる。平等でも何もない。当然ながら、この少数者のグループからしか提案は出てこない。その中で「それ以外の人々」をどうするかが検討される。このグループからもれた人々、すなわち人口の大部分を、リップマンは「とまどえる群れ」と称した。この「とまどえる群れ」が大半の民衆、私たちのことであり、メディアコントロールによって、本来の問題や、本来の疑問から目線をそらされているのだ。そんなことはまったく気づかないまま。

 こうして民主主義社会には二つの「機能」があることになった。責任をもつ特別階級は、実行者としての機能を果たす。公益ということを理解し、じっくり考えて計画するのだ。その一方に、とまどえる群れがいる。彼らも民主主義の一機能を担う。リップマンの言葉でいうと民主主義社会における彼らの役割は、「観客」になることであって、行動に参加することではない。私たちは観客になることに慣れている。

 選挙であの人をリーダーにしたいということが民主主義社会ではできる。ただいったん特別階級の誰かに支持を表明したら、あとはまた観客に戻って彼らの行動を傍観する。「とまどえる群れ」は参加者とはみなされていない。これが、彼らの中では正しく機能している民主主義なのだ。

 この背景には一つの論理がある。一般市民の大部分は愚かで何も理解できないということである。これが彼らの至上の道徳原則だ。彼らが自分たちの問題の解決に参加しようとすれば、面倒を引き起こすだけだ。彼らにそんなことを許すのは不適切であり、道徳原則に反する。われわれはとまどえる群れを飼いならされなければならない。とまどえる群れの激昂や横暴を許して、不都合なことを起こさせてはならない。

 そこでとまどえる群れを飼いならすための何かが必要となる。それが民主主義の新しい革命的な技法、つまり「合意のでっちあげ」だ。メディアと教育機関と大衆文化は切り離しておかなければならない。政治を動かす階級と意思決定者は、そうしたでっちあげにある程度の実現性をもたせなければならず、それと同時に彼らがそれをほどほどに信じ込むようにすることも必要だ。ここには暗黙の前提がある。

 これについては責任ある人々さえも自分を騙さなければならないのだ。どうしたら意思決定の権限を持つ立場につけるのか、という問題に関係する。もちろんその方法は「真の」権力者に使えることだ。社会をわがものとしている真の権力者はごくかぎられた一部の人間だ。この人間たちの存在を確かめてみたいものである。アメリカのドラマ「プリズンブレイク」を見ていた時を思い出す。裏のカンパニーが、ドラマの中では存在していたように、メディアを自分たちの都合のいいようにコントロールしている人たちがいるということ。私たちに不都合な真実からは目をそらすようにしているということ。それは、目をそらさせたいニュースがある時に、まったく違ったニュースの方が大きく取り上げられているときに操作を感じる。それに対して、私たちは慣れてしまっている。気づきもしない。

 1930年代に大恐慌が起こって、堅固な労働者組織ができ、1935年、労働者は民主主義の中での合法的な勝利を勝ち取った。労働者の団結権と団体交渉権を認めるワグナー法、いわゆる「1935年全国労働関係法」の制定によって、とまどえる群れが団結する権利を手にしたのだ。このために二つの深刻な問題が彼らの中に生じた。彼らとは一部のものたちだ。とまどえる群れが合法的な勝利を勝ち取ってしまったことは彼らには予定外のことだ。大衆はばらばらに分断され、孤立していなければならないのだが、大衆が組織化されれば行動の傍観者にとどまらなくなる。かぎられた資源しかもたない人々が大勢集まって団結し、政治に参入できるようになったら、彼らは観客でなく、参加者になってしまうかもしれない。それは操るものにとっては脅威である。二度と労働者が合法的勝利を得ることがないように、民主主義社会を危うくする大衆の組織化がこれ以上進まないように、企業側は対策を講じた。その目論見は当たった。労働者はそのあと二度と合法的な勝利を得られなかった。組合の活動能力は着実に弱まりはじめた。これは偶然ではない。相手は財界である。こうした問題を処理するのにいくらでも金と労力をかけられる。知恵もある。広報産業を利用し、全米製造者協会やビジネス円卓会議などの組織に働きかけることもできる。

大地震が起きた時、企業の広告は自粛されて、公共広告機構のCMばかりが流れていたが、あれも誰もがそれに対して何が言えるわけでもないものばかり流れていた。本質的な問題からは注意をそらさせる為の一つの仕組みに見える。人々が本当に考えなければいけないことから、違うところに目を向けようとするもの。韓国や中国のメディア操作なども、国内の大きな問題が何かある時に、なぜか日本との外交的問題になるようなニュースや素材などが、取り上げられ、本質的なものから目をそらそうとする動きがある。そんなことで意味もなく反日感情を使われるのは困ったことだ。

 情報を操作し、人の視点をそらす者たちにとって、本当に重要な問いこそ、絶対に口にしてはならないものなのだ。彼らに自分の頭で考えさせなにように、関心をそらし、彼らを社会から切り離しておくことが彼らにとっては重要なのだ。

 アメリカ社会

アメリカ社会は驚異的なほど財界が牛耳る社会になった。アメリカは国家資本主義を体制とする唯一の産業社会であり、他の産業社会に見られる通常の社会契約さえ存在していない。南アフリカを別にすれば、国家医療制度のない産業社会はアメリカだけではないか。こうしたやり方についていけない、日常の必需品を自力で得られない人々のために、最低限の生活水準を保障するシステムさえ存在しない。組合は存在しないも同然となってしまった。他の大衆組織もないに等しい。政党も組織も、少なくとも構造的に、理想にはほど遠い現状であり、メディアは企業の占有物となっている。二大政党といっても財界という二つの派閥にすぎない。

 広報業界の大立者、エドワード・バーネイズ「合意形成工作」なるものを発展させた。彼によればそれが民主主義の本質なのだそうだ。合意の形成を工作できる人々は、それをするための資源と権力をもつ人々、すなわち財界人であり、残りの人々は彼らのためにひたすら働くのである。

 日本社会はアメリカからの煽りを受けている国だ。アメリカにぴったりの官僚社会、自民党政権から民主党政権にバトンがうつり、変わったことはなんだろうか。それでも、根強く残る見えない手たちから、民主党政権もあまり進展がないように見える。私たちはメディアに操作されるのではなく、メディアからの情報に対しても必要があれば異議申し立てをし、監視しなければならない。本来メディアは政治を監視できることがメディアの存在意義の一つでもあるはずだ。しかし、財界の所有物となってしまっては、本来のことはできない。

わたしたちは、私たち自身の目を持たなければならない。メディアは知っていて、報道はしないが、それによって報道しない、虚偽の現実に加担している。われわれもまた、「知らない」「わからない」が私たちの本質ではないはずだ。だからこそ、情報に対しての視覚を広げ、メディアの操作ではなく、本質を見抜かなければならない。その目は、ニュースやメディアだけでなく、普段の現場の中でも同じことだ。

 

 

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