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ネオコンの論理 静岡P88

投稿日:2012/5/19

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ネオコンの論理

著:ROBERT KAGAN

Center:蒔田高徳

 ネオコンという言葉自体知らなかった。アメリカ新保守主義の呼称と言われる。昨今、ライフスタジオの討論で新自由主義を題材に討論がされた。アメリカは、世界に新自由主義を売りまくり、規制緩和だ、民営化だ経済を活性化する新自由主義を他国には叫びながら、アメリカ自体はなかなか保守主義ではないか。

 

 この本はヨーロッパ対アメリカという対比の中で記述されている。はじめに、ヨーロッパとアメリカが同じ世界観を共有しているという幻想にすがるのは止めるべき時期がきているとこの本の文章は始まる。力という決定的な点についての見方、つまり軍事力の有効性、道義性、妥当性についての見方がアメリカとヨーロッパではちがってきている。ヨーロッパは軍事力への関心を失った。少し違った表現を使うなら、力の世界を超えて、法律と規則、国際交渉と国際協力という独自の世界へと移行している。18世紀の哲学者、イマヌエル・カントが「永遠の平和のために」描いた理想の実現に向かっているのだ。

 これに対してアメリカは、歴史が終わらない世界で苦闘しており、17世紀の哲学者トマス・ホッブズが「リバイアサン」で論じた「万人に対する万人の戦いの世界」国際法や国際規則があてにならず、安全を保証し、自由な秩序を守り拡大するにはいまだに軍事力の維持と講師が不可欠な世界で、力を行使している。

 しかし、。ヨーロッパがカント的世界に安住できるのは、アメリカがホッブズ的世界の対処を遂行しているからだという指摘はアメリカを非難するヨーロッパ人が緊張する指摘である。その指摘には正しい部分があるからだ。

 

【軍事力格差】

二世紀たって、アメリカとヨーロッパは立場が逆転した。そして見方も逆になった。その一因は、過去二百年に、そしてとくに過去数十年に、欧米の力関係が劇的に変化したことにある。アメリカは弱い国だった時、間接的な方法で目標を達成する戦略、弱者の戦略を採用していた。今ではアメリカは強力になり、強国の流儀で行動している。ヨーロッパの大国は強力だった時、政治力と軍事力の栄光を信じていた。いまでは、ヨーロッパは弱いものの立場から世界を見ている。見方が大きく変わったことで、当然ながら、戦略的な判断が代わり、脅威に対する評価と脅威に対処する適切な手段に関する評価がかわり、国益に関する計算が代わり、国際法と国際機関の価値と意義に関する見方が変わった。

 アメリカには海外からの撤退を主張する政治家が多いが、現実には、冷戦期のほとんどより海外に介入する頻度が高くなった。また。軍事技術が進歩したため、空爆とミサイル攻撃というはるかに限定的な方法で、世界各地にこれまでより自由に軍事力を行使できるようになり、この形での介入が増えている。このように、冷戦の終結によって、これまでも大きかった欧米間の軍事力格差が、さらに拡大することになった。(p.38)

 強さの心理と弱さの心理「金槌を持っていると、すべての問題が釘のように見えてくる」という古い諺。だが、強力な軍事力を持たない国には逆の危険がある。金槌を持っていないと、どんな問題も釘のようだとは考えたくなくなりかねない。強さの心理と弱さの心理によって、現在のアメリカとヨーロッパの違いがある程度説明できる。ヨーロッパ仁は現在、力を獲得しようという熱意を持っておらず、とくに軍事力の強化には熱意を持っていない。過去半世紀に渡り、国際関係での軍事力の役割について、まったく違った見方を作りあげてきた。これは、第二次世界大戦後の独特の歴史から直接に生まれてきたものだ。そして、それまで一世紀以上にわたって悲惨な状況をもたらしてきた権力政治を否定してきた。軍事力に関するこの見方は、アメリカが共有していないものだし、共有できないものだ。見方の背景になる歴史が違っているからだ。

 ヨーロッパの戦略文化の特徴は交渉、外交、経済的な結びつきを重視し、軍事力の行使より国際法を重視し、威圧より誘導を重視し、単独行動主義より多国間主義を重視する。こうした文化は最近のヨーロッパの歴史だ。以前は違った。現代のヨーロッパの戦略文化は、過去のヨーロッパを意識的に拒否した結果であり、権力政治の悪を拒否した結果だ。悲惨な戦火をもたらした過去に戻りたくないという強烈な思い、歯止めのない権力政治がもたらす危険、軍事力への過剰な依存がもたらす危険、時刻の利益と野心に基づく政治がもたらす危険、さらには勢力均衡と国益の追求すらがもたらす危険を、ヨーロッパ人は痛感している。EUは単に経済的、政治的な面での統合の約束ではなく、ヨーロッパ戦争で荒廃した悲惨な世紀の教訓から生まれたものだ。

 

 ポストモダン

ヨーロッパはポストモダンのシステムで動いており、勢力均衡ではなく、軍事力の拒否と自主的な行動規範に基づいている。ポストモダンの世界では、国際関係を考えるうえで、国益やマキャベリの政治論でいる倫理基準の否定・・に代わって、道義性が重視されている。とか言うが

【二重基準(ダブルスタンダード)】

 クーパーは主張する。「ポストモダンの世界にとっての課題は、二重基準に慣れることである」。ヨーロッパ域内では 「法律に基づき、開かれた協力関係に基づいて」 行動できる。しかしヨーロッパ域外との関係では、「昔の荒っぽい方法に戻る必要があり、軍事力、先制攻撃、策略など、必要な手段を使わなければならない」(p.100-101)

ダブルスタンダードとか語りながら、それがポストモダンだとか言われても意味がわからない。現状は皮肉だ。皮肉に溢れている。

 

 

「欧米」は今でもあるのか

冷戦の時代に「欧米」には、戦略的、イデオロギー的、心理的に「欧米」の結束と団結を示す強い必要があり価値があったが、ベルリンの壁が崩壊し、欧米の連帯が成功を収め、ヨーロッパの安全保障のジレンマが解決し、ドイツ問題が解決し、「自由な統一ヨーロッパ」が完成し、バルカン紛争が解決し、ヨーロッパ大陸に平和と民主主義が定着し比較的安定した地域ができるなど、かつては想像すらできなかった偉大な成果が達成されると、避けられない結果として「欧米」は無くなったわけではないが、その重要性が低下した。

ヨーロッパは冷戦後、重要なのはもはや「欧米」ではなく、ヨーロッパ人にとって、最大の問題は「ヨーロッパ」になった。ヨーロッパの団結を示すことが、欧米の団結を示すことより重要視されるようになった。

この本は、最後までヨーロッパを対象にアメリカと対比しながら書いているが、ヨーロッパの部分を日本に置き換えてみるとき、「日米」と言う言葉も本当の意味でその関係が存在しているのか。ヨーロッパと同様、日本もアメリカに守られているからこその幻想がある。本を最後まで読んだが「ネオコンの論理」というタイトルはよくわからなかった。

アメリカを避難しながらも、依存しながら矛盾していると感じるからだ。そう考えると世界は矛盾しながら成立しているということか。

 

 

 

 

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