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嘔吐 サルトル 静岡P63 

投稿日:2012/3/25

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嘔吐

著者:サルトル

Center:蒔田高徳

 実存と不条理を描いた今世紀最高の小説と本のラベルには貼ってある。はたして本当にそうだろうか?過去の時代では、彼の悩み、苦悩、その小説の表現が最高だったのかもしれない。現代の私たちにまで最高かどうかは本を読み進めて見る中で自らが評価しなければならない。図書館と場末の酒場に通う孤独なロカンタンの日常の思考を書いているのか、それとも吐き出すように吐き続けているのか。

 変化

やはり最近の数週間のうちにある変化が生じたのだ。しかし、どこに。それはどこにあるとは言えない抽象的変化である。変わったのは私だろうか。もしもそれが私でないなら、変わったのはこの部屋であり、この町であり、この自然である。どちらかであるかを選ぶべきだ。変わったのは自分だ、と私は信じる。これがもっとも単純な解決方法である。またもっとも不愉快な方法である。しかし結局、私があの急激な変化に支配されていることを認めなければならない。事実はこうだ。つあり、私はものを考えることが非常に稀なので、その間にたくさんの小さな変化が私の内部に、用心しないでいる間に増して行き、そしてある日、本当の大変革が起きるということである。これが私の人生に、ぎくしゃくして一貫性のない様相を与えたのだ。

 と主人公が本の中でつぶやいている。この混乱の状態はライフスタジオの中での自分ともよく類似していると私は感じる。変わったのは自分だ。そう信じることは、どこかで不愉快な気持ちにもなる。一方で変わることを望んだ自分もいる。一貫性のない様相というのは、ひとつの苦しみである。しかし、その一貫性を自らに無かったものを一貫性にすべく私自身、今勇気を持って進んでいるのだ。しかし、私自身はそのフィールドに確信はしていないが、成長するだろうと思っている。そこに一貫性が作られればいいと思う。

 

 質問

小説の中に「満足ですか」「今夜は暇かい?」

という質問があった。本の中でされている質問が現在の私にたいする質問のようで腹が立つのは気のせいか?作者が意図的に書いた質問のように感じる。他愛の無い質問のようで

個人の内面に触れる質問だ。私は現在に満足していない。不満がある。それは周囲の環境がそうではなく、私自身のことだ。「今夜は暇かい」暇ではない。今、時間を追い込んでいる最中なのだ。

 

孤独のアマチュアという表現があった。ならば孤独のプロフェッショナルなどと言うものがあるのか。どちらも魅力的ではないが、私は孤独のアマチュアでいい。おもしろい表現だ。孤独のプロは精神がおかしそうだ。

「変わったことは何もない」と書いたのは気が咎めていたからである

この文章を見た時に、社長と話した時にとっさに言った自分の言葉を思い出した。なるほど、私も気が咎めてたのかもしれないと笑った。人間が自分の理性を籠絡しておいていかに偽ることができるかに、私は感嘆するという表現。私も文学的な表現でいうならばこの状態だったのだ。多分。

 なぜ自分がその話を語ろうとしなかったのか。それは自尊心のせいであり、それからまた、少しは不器用にもよるはずだ。私は、自分に起こる出来事を振り返って考えるという習慣を持っていない。私は出来事の続き具合をうまく見つけることができず、重要なものを見分けられないのだ。それは今となっては恥ずかしさだ。その当時は私もそのように感じなかった。いや、感じようとしなかった。自分を見つめようとはしなかったのだ。

 

 小石

本の中にある小石は、象徴的なものだ。誰にだってその小石となるきっかけや事件、事件ではないにしても、いきなり何かが「吐き気」となりうる。その吐き気を自身がどうしていくのかだ。

幸福は生まれたばかりで年老いている

この表現はおもしろい。幸福は永遠のものではなく、一時のものだ。よく夜疲れて、これ以上にない眠りに入って、次の日の朝、習慣的な仕事の朝で体を起こすときに私は「朝起きたら疲れていて、何のための眠りだろう?」と考えることがある。幸せと不幸せは人自身が決めるが、われわれの時間とは別の時間があるのか。

 

必然性

避けがたい必然、偶然ではない。必然。音楽の和音のような一致。

吐き気が消えたのを感じた。その状況は私にもよくわかるような気がした。吐き気のある不一致な状態が、なぜだろう、とある瞬間、秩序化され美しくなる。そういった必然性と自分が偶然に出会うことはないだろうか。それ自体が偶然ではなく、求めていた必然。それを求めて今日も混乱の中に自らの身を捧げるのだろう。かっこよく書きすぎたか?

 

感動、冒険

私は感動した。私は自分の体が、現在休止している精密機械であるように感じる。私こそ、本当の冒険(アバンチュール)を経験した。という文章がある。これは吐き気とは全く正反対の状態だ。吐き気を解決する事は冒険なのかもしれないと思った。吐き気がする状態は、その自分の理性、感情を偽りながらそのままの状態でどうしようもなくいる状態だと考える。そこから一歩踏み出す勇気、また冒険する事こそ、止めどない吐き気から開放される瞬間となるのではないか。私も冒険が必要だ。人生を旅するように、仕事も習慣的な退屈な繰り返しでなくそのように出来たらと思う。この冒険という単語、そして冒険に対する迷い。これはこの本の中でも核心的な部分ではないだろうか。いや、違うのか。

 なんの変化も起きなかった。しかしながら、すべてが別の仕方で存在するのである。私はそれをうまく描写することができない。それはあたかも〈吐き気〉のように描写できないものであるが、しかし本質において〈吐き気〉とはまさに正反対のものである。要するにひとつの冒険が私に起きる。そのとき、私は自問して、次のことを知るのだ。つまり〈私とはまぎれもないこの自分であり、そして、ここに存在しているという事態が自分に起こっている〉と。暗闇を引き裂いていゆくのはこに〈私〉だ。私は小説の主人公のように幸福である。

 しかし、幸福は生まれたばかりで年老いているとあるように、それは永遠のものではない。知性は肥えるけれども肉体は崩壊していくように、本の中で時間の非可逆性、冒険の気持ちとはただ単に時間の非可逆性の気持ちだろうと言っている。だがなぜ人々はつねに冒険の気持ちを持たぬのだろうかと本でもあるが、まったくそのとおりである。私自身もだ。この言葉と向き合う時、嘔吐というものから離れたと私は感じた。そしてまた本は吐き気に戻っていくが。

 

実存

私は実存すると本の中で意味不明ななんだか精神を病んだような気持ち悪いような表現で私は・・・実存すると繰り返されるが、サルトルは実存は本質に先立つと考える、それは人間は、何が「本質」だということを前提にしないで生まれてきてしまった「実存」なのであるということか。うーん。この点にについてはどう規定できるののだろうか?

 

吐き気は私から離れなかったし、それがすぐに離れるだろうとも思わない。吐き気とは、病気でも、一時的な咳き込みでもなく、この私自身なのだ。と文章の中にある。自らが吐き気ならば、自らが変わっていくことを選択することで吐き気はなくすことが出来るだろうか。彼の吐き気は実存するということへの反応。そんな大げさな・・・と思うが、実存ということを彼は小説で言いたくて言いたくてしょうがないようだ。本当に悩みぬいたのだろう。「不条理」という言葉が本の中で出てくる。

 私は矛盾に対しての心と体の拒否反応を感じることはある。それは社会の中であることだ。思い出したくないが。

私にはサルトルの言いたい実存主義がよくわからないが、小説を見て悩むことではなく、冒険することを私の中の吐き気の解決法とした。それは、一時のもので、訪れる吐き気をずっと解決できるものではないにしても。

 

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