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心がスーッとなるブッダの言葉 静岡P32

投稿日:2012/1/25

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心がスーッとなるブッダの言葉

著:アルボムッレ・スマナサーラ

Center:蒔田高徳

 本屋でこのタイトルを見たときに、買おうと決めた。つまり、私の心はタイトルに惹かれたのだ。スーッとしたかったんだろう。クールで合理的な初期仏教が教える幸せへの道と小さくサブタイトルがある。著者は1945年スリランカ生まれ。スリランカ仏教界長老。13歳で出家得度。国立ケラニヤ大学で仏教哲学の教鞭をとる。1980年に来日。駒沢大学大学博士課程を経て、現在は日本テーラワーダ仏教協会で、初期仏教の伝道と瞑想指導に従事している。

 日本では日本各地に仏教の面影が残っている。寺がたくさんある。仏の像のイメージだ。著者は言う。仏教は、皆様が思っているような「宗教」ではありません。迷信も信仰もないのです。2550年前に説かれたからといって、科学的知識がなかった昔の人々の思考ではない。ギリシャ神話の世界観でも、ソクラテスのおうな初期時代の哲学でもない。盲目的に信じられていた神の話ではない。権力者の後ろ盾になって、庶民を搾取する目的で人々を脅かして束縛する話でもない。現代科学の火種も現れていなかった時代に、世界に発表された教えだが、ひとかけらも現代科学と一致しないところも、間違ったところもない。神を否定しますが、現代人のように唯物論にはならない。永遠の魂など実在しないといっても、虚無主義には陥らない。では仏教とは何なのか?現代に生きる我々のさまざまな問題について、お釈迦様の観点から見るとどんな答えが出るのか、本書にはやさしく解き明かされています。おやすみの前に、好きなページをめくってみてくださいのメッセージの通り。私も眠りに入るイメージで本を読んでいました。

 すべての悩みの原因は自分の心にある。

なぜ人は悩むのでしょうか。それは人間の心が病んでいるからなのです。病気なのです。心の問題というと、すぐ精神的問題を想起してしまうが、それは医学の領域で、心の苦しみ、悩み、悲しみ、怒りなど、それは「感情」と言うもの。お釈迦様は、この心の病に対して「心の汚れ」という意味の「煩悩」という用語を用いた。仏教ではこの煩悩には千五百もの種類があるといっています。私なんかも煩悩の塊で、いつもなんかくだらないことばかり考えています。

煩悩は、外に実在する諸処の対象ではなく、人の心の中にある概念=想念。外に実在する美しいものは欲ではありません。心に入る情報をありのままの姿として捉えて概念=想念にふりまわされないようにすることができれば、それが心の健康の唯一の治療法だということ。悩みはすべて自分の心が作り出していると知ること。それが大事だと言う。ふりまわされないことだ。

 認識は妄想に満ちている

妄想とは現実をありのままには認識しないで、自分の好みで、主観で認識することです。頭の中で概念だけが回転する状態です。私は妄想が得意だと思います。ところが、仏教が理性を重んじるのに対し、捨て去るべきものととらえているのが妄想です。これを邪見いとも言います。知ることは、「正知」「誤知」という二つに分けられます。「正知」とはありのままを知ること。「誤知」とはあってほしいままに主観で知ること。人は自分に都合がよく「誤知」が得意だと思いますが、仏教徒は「誤知」を「正知」に変えるプロセスだといいます。そのためには修行をして完全に妄想を破らないといけません。やはり修行が必要なのか。

 「わたし」はただの錯覚である

仏教では「わたし」などないと考えるそうです。自我というのは錯覚だと。ひとはある現象にあった時「わたし」を主語として感覚をまとめてしまう。それらは「わたし」の主観。自分が感じたものを真理だと思ってしまうのが自我という錯覚であり幻覚なのだそうだ。西洋哲学に「我思う故に我在り」という言葉があるが、これは仏教から見れば間違った思考だとのこと。つまり、「わたしが思う、だから、わたしがいる」というのは、「わたしが思う、だから、わたしは正しい」という態度でもあるから。「我思う」というはわたしが感じたことを概念化すること。ここから煩悩にとらわれて真理が理解できない状態、仏教の言葉でいう「無知」がはじまる。だから仏教では「時がという錯覚を破る」という言い方をします。そもそも自我は存在しないのだかrあ、自我を破るのではなく、自我という錯覚を破るのだ。自我の錯覚にしがみついている無知な人は、自分の殻にとじこもって、主観の生み出した概念に永遠に振り回されてしまうとある。そんな悟りが開けるか!!自我だらけじゃ!!

 欲ほど恐ろしいものはないと知る

私は欲そのものは悪ではないと考える。ブッダの教えは少し極端ではないかと反論したいが、仏教が推薦するのは、「欲しい」ではなく「必要」ということだそうだ。つまり、

I want you ではなくI need youというヘビーローテンーションの歌詞のようだ。話がそれたが、「これだけあれば十分だ」というリミットを自分で意識しながら生活すること。自分の体に、心にゆっくりと耳を傾けて、「今の私には何がどれだけ必要か」と聞いてみる習慣が大事なのだと。確かに不必要な食事を取り続けてしまい、私は太っている。仏教の教えも一理ある。

 自分に正直に生きてはいけない

人間の心は、放っておくとすぐ悪い方向へ向かう。心をコントロールしないと充実した人生を送ることはできない。自分に挑戦する道である。人格を向上させるには心を育てる必要がある。世の中の悪は、たいてい、「自分に正直」な人たちが起こしている。しかし、だからと言って自分の気持ちに正反対の行動をすることにしても、それもまた問題だ。大変なストレスがたまり、長続きしない。ではどうするのか。それはまず「理解する」ことが大事だという。欲や怒りが生まれたときに、「これは欲だ」「これは怒りだ」と気づくこと。これをパーリ語で「サティ(気づき)」と言う。欲や怒りが生まれると、人間はものが見えなくなり、感情に駆られて正常な判断ができなくなる。それをおさせるには、まず自分がそういう状態であると認識すること。それがサティだ。そして日常から感情に操られる奴隷ではなく感情を操る御者となるように、訓練をつむこと。その訓練法が仏教であり、仏教徒は具体的・論理的な感情のトレーニング法でもあるという。

 

「偉い」とはどういうことか

地位や財産、名誉がある人が偉いのではなく、人格を高め、自分の役割をきちんと果たせる人は皆偉大だという。

仏教は一人一人の人間が、社会人としてきちんと生活することを大きなテーマとしている。社会における役割分担の重要さを説き、社会的動物として、人がそれぞれ果たす役割について深く考えている。仏教的にみれば、リーダーとはたった一人の誰かではなく、自分の役割をきちんと果たせる人々すべてであると考えることができる。正しい生き方を守ることができれば、誰でもリーダーになる。世間ではこうした考え方とは別の考え方だ。

お釈迦様は「愚か者たちが知っている智慧はすべて自己破壊になるのだ」と説き知識や財産、名誉を追求するより先に、まず人格者になりなさいとお釈迦様は諭す。わたしたちが人格者になってさらに富や名誉を得るのならば、この世はよくなります。人格者がリーダーになるのであって、リーダーだから人格者になるのではないということです。これはいい言葉だなと思います。私も人格者にならなければなりません。

 

人生に意味などない

ページをめくり、このタイトルを見た時には思わず笑ってしまいました。人生の意味を考えて苦しんでいるのに、人生に意味などないと言われたら、あははとなってしまいます。生きるというのは、単に母体から生まれてきた生物が、年をとって、徐々に衰えていき、ついには寿命を迎えて死んでいく、ただそれだけの話。だから、生きること自体には意味などないのですという。

目的なき人生をどう生きるか

人間が死ぬことは、どう抵抗してみたところで避けられない事実だから、「どうして生まれてきたのか」という質問には誰も答えられない。そもそも生きる目的や意味というものがあると思うから、それが見つからないことに悩んだり、自分の存在を否定したり、精神的な混乱に陥ったりしてしまうのだという。世の中には答えのない問いと答えのある問いがあり、「生きる意味」は「答えのない問い」「答えのない問い」は放っておく。それが理性に基づく生き方だといいます。思わず本にはペンで「おーーーーーい」とツッコミが入ってしまいました。けして適当に生きることではなく、変にとらわれずに生きるということだと理解するが、やはり、このページには笑いが止まらず、でも悩んでいた心がだいぶ軽くなったことは確かだった。

ブッダの教えは、心が本当にスッキリする。反面、どこかで違うわ!とツッコミを入れたくなる。たくさんのページの良い言葉たちとにらめっこしながら、とらわれない生き方が少し出来るようになった。しかし、いい加減になってはいけないのだが・・・。

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