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『哲学カフェ!』 静岡プロジェクト22

投稿日:2011/12/2

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哲学カフェ!

著者:小川仁志

Center:蒔田高徳

 本を探していたら、タイトルに自然に惹かれて買った本だ。すぐにライフスタジオを連想した。「哲学カフェ」というのはもともとマルク・ソーテという人がパリのカフェで始めたそうだ。コーヒー片手に、楽しく哲学をするイベントです。哲学を暗い部屋で一人、沈思黙考にふけるなど、方法はありますが、ひとりで考えるより、多くの意見を聞きながら、みんなで対話しつつ考えていくことも出来ます。時には、そのほうがよいアイデアが出る事もあると思います。それが「哲学カフェ」の発想とのことです。

ふとタイトルを見てライフスタジオの事を思い浮かべていました。それ、いいかも。カフェっぽいのもいいなぁと。

 会社の会議とは違って、もっとリラックスして、楽しく考える。そんなことが実現できたらいいなという願望を形にしたもので、今「哲学カフェ」は日本でも広がっており、全国のさまざまなところで開かれているようです。インターネットで検索して調べてみると哲学カフェは確かに日本でも所々、開かれています。おもしろそうなテーマの時、見つけて参加してみるのも楽しそうです。

哲学カフェに決まった定義があるわけではありません。共通するのは、進行役がいて、テーマを設け、その場にいる人たちが話して聞いて考えるというシンプルなつくりです。ですから主催者や進行役によって雰囲気がちがってきます。徹底討論する、じっくり対話を進める、その場でテーマをつのる、進行役がテーマを提示する、哲学の知識・歴史をフル活用する、日常経験を活かす、などなど。進行役の個性や場所の雰囲気によって違ってきます。いろいろなカフェに参加して進行役の個性や違いを味わうのも、哲学カフェの楽しみ方の1つと言えるでしょう。大学が主催する大規模なものもあれば、個人が仲間を集めて喫茶店でこじんまりと行っているところもあります。もし、街にあるカフェに偶然入ったら哲学をしている現場に遭遇することがあったら、今までなら興味も示さなかったかもしれませんが、なんだか興味津々です。

本の中で人物が様々な議論をしていきますが、進行役の先生が非常に上手です。いつも言う事ですが、「哲学にファイナルアンサーはありません。つねに、その時々のベストアンサーが得られるだけです。今日の対話をきっかけに、続きはみなさんそれぞれが、自分の人生のなかでこの問題を考え続けてください。とメッセージを言います。「哲学に終わりはないのですから」テーマ別に議論する中から、著名な哲学者たちがどう主張したか、わかりやすく話が出てきます。

本の中でいじめはなくすことができるか?というテーマで哲学をしている章があります。そこでいじめとは何かを議論している中、サンデル教授が重視した美徳とは?という部分がありました。以前読んだ本、討論した話しを思い出します。人生において何を重視するかによって、人達の答えが変わってきます。言い方を変えれば、何が正義かということ。幸福の最大化に価値を置く「功利主義」からすると、一人が苦しむだけで残りの人が幸福になれるならいいということになる。その人が喜んで犠牲になると言ったらどうなのか?それは「リベラリズム」だと言う。個人の自由を重視する、個人の自由が保障されていれば、それが正義だと考えること。そこで、私は、いくら本人がいいと言ったとしても、嫌だ。そのような犠牲になる姿を見たくない。同じ人間なのに、みんなにとって他人事と言えるのか?と言う主張があり「コミュニタリアニズム」という。共同体の美徳を重視する立場で、同じ仲間が苦しんでいるのを見るのは忍びないという理由から、手を差し伸べる事のできる唯一の立場だと。マイケル・サンデル教授の立場はこちらではないかという議論をしていました。そしていじめを防ぐ方法を皆で考えながら、答えを出すことではなく、考え続けることの中、哲学の問いに終わりはないものの、その議論を客観的に見つめながら私自身も一緒に考えていました。

「暴力と権力」を哲学する

暴力とはなにか?なぜ、人間は暴力をふるうのか?暴力を止めるには暴力しかないのか?イタリアのムッソリーニは、「解放する暴力と屈服させる暴力がある」と言い、自分たちのはいい暴力だと主張していたが、正義の暴力はいいのか?アメリカはそう言って、いつも戦争している。誰がいい暴力だと判断するのかという難しい問題にいつも答えは出ない。

では、ガンジーの非暴力は正しいのか?だけど、ガンジーは暗殺されてしまった。抵抗しないのがつねに正しいとはいえないのではないか?ユダヤ人はそうやってたくさん殺されてしまった背景があり、イスラエル人はガンジーをよく思ってはいないという。発想としては理想的であるが、つねに現実に対応できるとは限らない。それでは、反対に、すごい力で威嚇することで、暴力をなくす抑止力の話が出る。核抑止力のように、その力を現実に行使する可能性があるから意味を持つものは、すでにそれが、暴力による暴力の抑止という話ではないか?どうすれば暴力をなくすことが出来るのか?メルロ=ポンティ(フランスの哲学者) も人間の歴史は暴力の歴史だと言う。

 憎しみの連鎖を断つしかない。どうやって?許す。それが出来れば苦労はしない。「利己的」だと言っていた。反対に「利他的」になればどうなのか?つねに相手を理解しようと努める。宗教はよく利他を説いているが、どうすればそうなるか?それは教育か。

 人間は本能として暴力を用いてしまうことがあるとしても、それを抑えることができるのは理性だけだ。そして理性とは考えることだ。私達が本質と思い込んでいることは、実は思考停止に陥っているだけで、暴力の以外の方法で解決できるかもしれない。では、理性は万能なのか?

 理性を追求した結果、なんでも合理的に考え、同一性を共用し、ときには悲劇も生んできた。ホロコーストはそうだと言う指摘もある。ユルゲン・ハーバマス(ドイツの哲学者)は理性の中身が大事だと言う。ハーバマスによると理性にも種類があり、近代以前の理性は「道具的理性」だと言う。それに対して、求められるべきは「コミュニケーション的理性」だと言うのです。つまり、自分だけでこれだと決めつけて、その目的を達成するために理性を使うのではなく、他者と意見を交換しながら、正しいものを見つけていく理性だという。

 私達の会議、別に暴力は起きていないが、この哲学の部分を見ながらハーバマスの言うように、近代までの理性が結局暴力を生んでしまったことを批判し、別の理性を掲げる事を主張した「コミュニケーション的理性」を掲げたように、自分の考えが正しいという前提で、それを強引に押し通すのではなく、「相手の意見を尊重しつつ、共に真理を探究するという態度」ハーバマスの主張する討議の倫理は、相手に譲歩する可能性があり、自分の意見が変わりうるという前提がある。最近会議や討論の中、見解の相違から話が熱くなるが、コミュニケーション的理性という考え方をその時は思い出そうと思う。

 UNESCO憲章の文章に「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」心の中の平和の砦・・・それはなんだろうか?

 それはなぜ?と問いかけることではないでしょうか?と進行役の先生は言います。つまり、なぜこんな争いをするのか、これは本当に正しい行為なのかと問う事だと。多くの戦争は、そのように問うことなく始まり、後から馬鹿げたことをしたと反省する。だから、常に問う必要がある。だから、問い続けること。それこそが、心の中の平和の砦ではないかと言う話があった。

進行役の先生が言うように考えることは平和につながる。考えずに思考停止になった状態で人は危険になる。哲学する事は平和にもつながる可能性があるのだ。

 たくさんの哲学のテーマの中で、私達人間は?とたくさん考えて議論しました。私も議論の中に入っているようでした。人間は未熟で、未完成で、矛盾に溢れた存在であるにもかかわらす、理性を駆使して、理想を追求し、希望を捨てない。どうやらそれが人間のようだ。そんな本質を持った人間に哲学は絶えず必要だ。人間が哲学をし続ける限り、希望の灯は消えないと最後に著者はまとめます。それを哲学カフェの中で実際に人と共に考える中、多くの哲学者の考えを学びながら共に学んだという。私もたくさんの哲学をし、考えていくことを止めないようにしていきたい。

 ・・・・哲学カフェ・・・オープンの予感。コーヒーは嫌いだけど。

 

 

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