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越谷店
哲学入門 バートランドラッセル 1章から5章まで
投稿日:2011/11/15
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第一章の始まりに
理性的な人なら誰にも疑えない、それほど確実な知識などあるのだろうか。この問いは一見難しくなさそうに思えるが、実は最も難しい問題の一つである。自信をもってきっぱり答えようとしても、何かがそれを妨げている。そのことをはっきり認識するとき、私たちはすでに哲学を始めているのである。
ここまで、考えれるのも、疑えるのもすごいなと単純に感心する。私はそんなに考えた事がないからだ。現象と実在の区別、つまり物がどのように見えるかと、どのようであるかの区別。これは「在る」というものをそもそも実在のものはあるか。あるのなら、それはどんな対象であるのかを考え、本ではじめて「センスデータ」という言葉を私に認識させた。一章の文末に哲学は、望まれているほど多くの問いに答えられないとしても、問いを立てる力は持っている。哲学に終わりはないように、答えを出す事でなく常に問いを立てることをわたしも続けていきたい。そして問いをたてることで、世界に対する興味をかきたて、日々の生活のごくごくありふれたもののすぐ裏側に、不可思議と脅威が潜んでいる事を示すのであるとある。その裏側に触れる事が今後も楽しみだ。
第二章にある信念を拒否する理由になりうるのは、他の信念意外にない。という文章があった。まったくもってその通りだ。それがあって、目の前のものが盲目になって見えなくなる。あるものが、ないとなる。この事に今後も注意していかなければならないと思う。
第三章に、物理学は一つの答えをだしている、それはたしかに不完全なところもあり、一部は非常に仮説的ですらあるが、しかしそれなりに尊重に値するものだ。物理学は、すべての自然現象は運動に還元されるべきだとする見方。考えてみると、私達の心と体も、運動に還元されているのだと思う。心が先か、体が先か。その二つは別のものではなく、表裏一体の一つのものとして、運動をなしているのかと思う。
視点の違いにより、同じ対象が人それぞれに異なる形に見える。物質の本性とは見るときに、巨大な大理石を見たときに、その本性は大理石そのものを、その対象を柱として見れば人はそれを素材として対象として柱にもする。物質のように見えるのも、本当は心的なものだ観念論者は教える。うーん。
第四章
第四章でラッセルはバークリを否定しているが、私はラッセルよりもバークリを応援したいと思う。文章で否定している内容に「うん、そうだね」と全く同意できない。私は彼の言っていることでは理解できなかった。面識せずに正しく判断しているときに生じているものは「記述を介してものを知る」ということ、および、「その記述にあてはまるものの存在を面識しているものの存在から一般的原理を通じて推論できている」ということその区別をした。
第五章
四章で知識には面識と記述という二種類があるとなった。五章では「抽象観念」と「普遍」という単語に腺を引いた。私たちは、存在する個別のものだけでなく、白さや相違、兄弟であることなどの一般観念、すなわち普遍も面識している。記述による知識の重要性は主として、それによって私的経験の限界を超えてゆけるようになることにある。記述がもたらすこの成果は死活的に重要だと書いてある。その点同意する。最近そのことを非常によく感じている。ただラッセルさん。あなたの論はすごくまだ物足りない。非常に物足りない。満たされる事がない。
だから疑問を持ちながら次に進む。
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