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サウスバウンド

投稿日:2011/2/15

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サウスバウンド読書感想文

この物語は上巻と下巻とに分かれているが、つながっているストーリーがまったく別の2つの物語を読むように、楽しむことができる本だ。舞台は東京と沖縄の西表島。一部は東京の中野の街が舞台だ。二郎の子供ながらの視点と悩みと成長の過程に幼少時代の共感する部分を男性は覚えるのではないだろうか。作者の物語の進め方が臨場感があり、スピーディーですばらしい。男の子なら、絶対にあったろう友情と喧嘩と、避けられない不良との出会いや、大人との葛藤、そして大人に近づく間での自分の価値観形成。私は次郎のように不良にからまれたり、かつあげをされたりの自分の生活を脅かすような被害にあった経験はないが、自分よりも大きな存在の出現、先輩後輩の壁に、なんであんなに世界が小さく苦しくなったんだろうという感じがしたのをどこか心が弱気になるチクっとする思いなんかを思い出していた。

小説で次郎の味わう不良の存在は、あの時自分を大きくしたのか、自分はどういうふうに大人になってったんだっけ?とふと思い返していた。今思えば大したことではないのに、あの時はいろんな事が自分の少年時代にも巨大な事件だった。

物語の話しに戻ろう。父は元過激派。国が嫌いで誰とも群れること無い、誰にも媚びることの無いアナーキスト。税金など払わない、無理して学校に行く必要はないと言う。年金未納に恥ずかしくないか、国民の義務だと迫られても、「じゃあ国民辞めた」の発言。この主張には本当に笑わされた。どこかうちの母親を思い出す。うちの母親も、常識では考えられない人だった。次郎の父とまではいかないが強い人だ。今でもその母には次郎のように、おいおい頼むからおとなしくしててくれないかと悩む点は、共感を覚える自分がいる。

反社会的な父の言動は豪快で、ものすごい。その反論が屁理屈のようで、それでもどこか筋が通っていたりもして、国家があって、法律があって、それが当たり前でいる現代の自分には、父一郎の主張は何を言ってんだ?めちゃくちゃだと最初は思いもするが、自分の信念を曲げることはけしてなく、違うと思えばすぐ闘う一郎は周りに歩調を合わせる現代にはあまりない信念の塊のような存在だ。

その家族を振り回しながらストーリーがテンポよくドラマを見ているように楽しく物語が進んでいく。二郎のどうしようもなく、親を見つめるその感覚が幼い頃の自分をたびたびフラッシュバックさせる。自分の父も母も変わり者だった。しかし、その生き方にもどこかで男らしさを成長の過程で感じてくる。そしてそんな父を見捨てるでもなくとことんついていく母。少し大人の姉。幼い妹の桃子。家族の設定、周囲のどこにでもいそうで、なかなかいないキャラクター達が、自分も東京の中野の街の中にいるような感覚にさせた。

一部と二部で物語は全然違った物語になる。舞台も東京から沖縄へ飛ぶ。二つの小説を読んでいたようだ。そのくらい変化がある。父に対する視線が、東京と西表島ではガラリと変わる。東京にいた頃のどうしようもなく思っていた父が、島では本来の野性味が出てきて、頼もしく感じるようになる。そこでまた引き起こされる過激な父を中心として家族が翻弄されるストーリーに、この父は本当に変わらないんだなとどこかで次郎と同じようにあきれながらも、その破天荒な言動と信念を曲げるなというメッセージが何かを感じさせる。

父が悪いのか、社会がおかしいのか、国がおかしいのか。そのメッセージは現代の我々にも向けられたものもあると思う。我々は特に何を選んだわけでもなく、なんとなく考えもせずに生きている。主人公の父のように、自分の意見を持つ訳でもなく、隣の人に合わせた、社会と言う名の建て前で生きている節がある。自らの考えと、判断でものごとを見ていく目があまり無いのが、現代の日本人なのかもしれない。父親の一郎の感心するところは、常識からは外れているが、自分の立ち位置をけして変えない。それでいて自分自身の事を理解している。次郎に対して「俺のようにはなるな。少し極端だからな」と息子に語る姿。言われてもならないよと思いながらも、父に似た要素がある自分自身を感じるときに、自分は父の子だと実感し、それがうれしくないような嬉しいような、なんだか妙な気持ちになるのが男ってもんじゃないだろうか。私も父には似たくないが、似てしまうのだ。困ったものだ。

私なりに、作者がこの物語で何を言わんとしているのかを考えて見た。思想の違いの闘争、これが過去にあった。今社会は、資本主義で通っている。それに不満がある人もいるかもしれないが、昔のように学生運動や、過激な思想の闘争は現代社会では目立たない。むしろあったとしても時代遅れと言う感覚がある。ただ、資本主義が勝利した訳でもない。現代の社会のすべての問題を資本主義がカバーしている訳ではない。人の感情がすべて整理されるように資本主義でかなうことが人の心すべてを豊かにはしていない。かといって共産主義でもない。その対立する2つの主義とは関係が無い、何主義でもないが、沖縄の精神「ゆいまーる」という言葉が登場する。「ゆいまーる」とは沖縄の昔ながらの言葉で「助け合い」を意味する。それは資本主義でも共産主義でもなく、何かに従属する縦社会でもない人間らしさの助け合いだ。沖縄で「ゆいまーる」の歌があるが、なんだか本当に暖かくなる歌なのだ。一度聞いてみてほしい。

私達は普段資本主義の中にいるが、資本主義について特に考えることも無い、問題点を探すこともよほどの事がないかぎりない、逆の主義を考えることも無い。だから、動いている国の中で自然と生きている。良いことでもあるかもしれないが、何も考えがないことは良くないと思うようになってきた。父の一郎は極端だが、自分の信念がある。そして信念を元に行動をしている。南先生が次郎にあてた手紙の中で「先生は生徒のことより、職場のことを考えました。ただ波風を立たせたくないばかりに、上原君に正しくないことをいっていしまいました。大人は正義より、自分の利益をゆうせんします。大人は基本的に臆病でずるいのです。ここにみとめます。上原君のお父さんのように、正々堂々と異議をとなえる人は、百万人に一人ぐらいです。自慢に思っていいと思います。」とあったが、本当に現代の日本ではこういう南先生のような人が多いのだと思う。私自身もそんな中の一人であることもあると思う。先生の言うように、父の一郎はそういった面では本当にかっこいいのだ。資本主義のルールで言えば、法律を守っていないが、自分の信念を持って、異議があれば異議を唱えている。

作者からこの小説を通して私達現代人へのメッセージがあるとすれば、「自分の信念を持って行動してくれ」ということ。それに基づいて意見したり、行動することが、とにかくなくなっていることが危惧されるべきことだと警告しているメッセージがあるのではないかと感じた。一郎が「俺のようにはなるな、俺は極端だからな」とある。一郎のように極端までになることはないが、自分の信念を持って生きろ、自分で決めろということは次郎だけでなく、読者も自分に言われたような気がしたのではないだろうか。

そして父と母が悲しむわけでもなく、幸せそうに船を出して探したパイパティローマを尋ねていくのは、他ならぬ「あなた達、読者だ」ということではないだろうかと感じたのであった。

サウスバウンドという物語りを楽しみながら、また何を大切に生きるべきかを学ぶそんな時間となった。パイパティローマを目指して・・・

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