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2018年1月のフォトジェニック

投稿日:2018/2/16

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「違い」よりも「深く」

Tokorozawa Photo
Photographer: Satsuki Kudo
Coordinator: volvo

 
 
写真で私は何を成すことができるのでしょうか。
ライフスタジオに入社して6年が経ち7年目を迎える今も、私はこのことをずっと考えています。
今まで何かしらの価値を写真で成してきたと思っていても、
それは全くの勘違いで、本当は何も成していないのかもしれません。
まだ何もわかっていなかったのかもしれません。
ただ、毎日写真を撮る日々の中の、1件1件の撮影の、1枚1枚の写真の、
一秒一秒の瞬間に、私は意味を付けて生きてきたのか…。
そう振り返ると、いたずらに時を過ごしてきたことのほうが多かったのかもしれません。



 
私は所沢店のメンバーとともに「写真人文学」という学習を継続的に行っています。
その中に、“芸術の価値とは何か”という問いがあります。
そこには、歴史的な芸術の発展の過程で、“普遍的な美の基準の確立”と“古い因習の踏破”が同時に成されることが、芸術の価値につながるという意味のことが述べてあります。
つまり芸術は、“いつの世も誰の目から見ても美しいと思えること”と“新しく広い世界への美しさの模索”という2つの面があるということです。
芸術の価値にはいつもこの2つの相反する面が作用していきます。
今まで在る基準は非常に重要ですが、この先に進むには広く新しい視点も非常に重要です。
これら2つを切り離すことはできません。
 
この観点をライフスタジオの写真へと向けてみましょう。
ライフスタジオの写真は、“芸術”なのか“商業写真という道具”なのかという問いにおいては、“限りなく芸術作品を目指した商業写真である”と言えます。
使用目的のある“道具”という面は商業的な活動をしている以上切り離せませんが、被写体である“家族”や“人”の真実や真理を表現しようとしている以上は撮影者の意図は限りなく芸術的です。
そういった規定がされたときに、「いつ誰が見ても美しいもの」と「新しく広い視点」はライフスタジオの過去と今を繋ぎ未来への扉を開くカギとなります。
それを提示する場所がフォトジェニックの場だと私は思います。
そして、実際マンスリーフォトジェニックで選ばれる写真も、堅実で論理的な美の基準を持つものもあれば、真新しい何かを追い求めているものもあります。
 
そして今もここフォトジェニックの場では、各店舗の撮影者が思い思いのライフスタジオの写真を提示する場となっています。
 
真新しいものはライフスタジオの写真の未来において非常に重要ですし、それがなくては発展がありません。
実際に、人の目というものは“見慣れたもの”よりは“真新しいもの”や“物珍しいもの”に行きやすいのだと思います。
誰しも、どんなに美しいものだとしてもいつもそばにあり見慣れてしまえばその美しさに気付きづらくなるように、ライフスタジオの写真も美しく真理を得ているものでも見慣れればその良さを発見することは無くなります。
その中で、“真新しく”“物珍しい”物は魅力的に映るかもしれません。もしかしたらその発想力に憧れの念すら抱くかもしれません。
そういった風潮が広がると、人は誰かと違うことや個性的であることに価値を見出すことになるのかもしれません。
 
自分という存在の表現や、自分の視点を信じて表現をするということは、決められたように見える世界からの脱出かしれませんし、自分という存在を自律させる第一歩になります。
だから、自分の言葉で表現し、自分の視点で写真を撮ることはライフスタジオで許されている撮影者の自由であるといえると思います。
 
でもときどき、私は私自身に問いかけることがあります。
「私はただ違いばかりを求めているのではないか」と。
誰かと違うことに固執しすぎて、本当に写真で表したいものに誠実になっているのかと。
 
そして空しい気持ちになることもあります。
外面だけ繕った写真で、果たしてこの中身に在るものはなんなのか。
その写真で写したかったものはその被写体自身なのかと。
 
そこでライフスタジオの写真の価値とは何かを考えてみることにします。
常々、フォトジェニックで言っているようにライフスタジオの写真とはどのような方法であれ、「被写体の存在の美しさを表現する」という目的に向かっていくべきものであると考えます。
なぜならば、ライフスタジオのすべての基準が「人」であるからです。
つまり、写真の基準も「人」であり、目的も「人」です。
だから、その写真はどんな表現方法であれ「人」を表すものであるといえなければならないと思うのです。
 
つまり、先ほど言った「差異」とは方法であり、「意味」とは内容であり目的になります。
ライフスタジオの写真は、この「差異」と「意味」が両立されているものであると言えるのです。
「差異」だけあっても「意味」がないと価値とは言えないのです。
反対に「意味」を考えられた写真には、そのように形作られていきます。
 
今回、フォトジェニックに上げさせていただいた写真は、一見平凡に見えるミドルアップの写真かもしれません。
ここで私が表したかったものは、紛れもなくこの被写体自身であり、被写体の持つ美しさと被写体の存在の真実でした。
この被写体自身は、小学2年生の男の子で爽やかな笑顔と力強い視線と自分の存在への信頼感が印象的な子でした。
撮影風景を両親に見られると恥ずかしがっていましたが、大人への受け答えもしっかりしており、言われたことは忠実にこなし、私たちとの会話も変な違和感もなく、人前でもごく自然な立ち振る舞いができる子でした。
 
そんな彼を表現するには、誰かがこの写真を見た時に彼の自然な存在感で魅了できるような写真を撮ることでした。
そのために、私はスマートフォンとイヤフォンを渡し音楽を聴かせました。音楽を聴かせることで撮影の世界観に集中させる狙いもあったのですが、スマートフォンとイヤフォンを用いることで現代の子どもらしさと何かをしてもらうことで自然な動きを引き出せるようにするためでした。
音楽を聴きながら、いくつか指示を出しこちらに目線をもらう瞬間に、印象的な瞳を力強く写そうとしましたが、敢えてミドルアップの画角に動きを出すようにウインクをしてもらうようにしました。
これは一緒に入ったvolvoさんの発案でしたが、これが1枚の写真で彼の魅力を端的に表現するための最後のパズルの1ピースになりました。
このウインクに合わせて、斜めに動きを出すように金属の前ぼかしを入れます。
この前ぼかしによってこの絵の何か抜け落ちたような空間の欠落を補い、この被写体の魅力を表すスパイスにしました。
レンズは85mm。
後ろの背景を溶かし、前ぼかしの質感を損なわずに、目に集中させるレンズ。
これは、彼という存在を表すため目にフォーカスすると決めて予め装着していたレンズです。
光は半逆光。
サイド光でも逆光でもなく半逆光を選んだのには、被写体の輪郭を際立たせ、露出を少し落とすことにより瞳に目が行くようにしたかったから。
こうして、構図・ポーズ・表情・レンズ・光に「被写体を表現するという」意味を持たせること。
 
この「意味」があって初めて写真に深みが出ます。
この深みを知った時に、写真は「差異」よりも動かされる何かを得ることができるのではないかと思います。
そして目指すべき写真は、「意味」のある写真であり、その方法は「意味」があって初めて決まるものなのです。
哲学エッセイに「内容」と「形式」という言葉があります。
「内容」は「形式」に先行するということですが、要するに事物は「内容」にあった「形式」になるということなのです。
だから「形式」ばかりを追い求めても「内容」が空洞になってしまうし、「内容」があるなら「形式」になるということです。
ライフスタジオの追い求めている写真も、「内容」である「意味」と「形式」である「表現」その両方があって初めて価値のある写真と言えると考えています。
 
もちろん、「意味」を追求していけば「表現」も発展していきます。
しかし、「意味」の追求を止めてしまったら、「表現」は既存の伝統的な表現に留まってしまいます。
 
その両立を常に追い求めていくこと。
そういった価値のある写真を、私は追い求めていきたいのです。
そして肝に銘じておかなければいけないと常々感じるのです…。


 

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