フォトジェニック


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2015年3月のフォトジェニック

投稿日:2015/5/9

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「成人写真」

Photographer:suzuki
Coordinaite:hachiyama
 
Lifestudio No.5, Koshigaya


写真の構成要素を中心に話す前に『被写体はどのような存在なのか?』から話をしなければならないと思っています。写真の構成要素はその次に話せば良いのです。なぜなら写真の構成要素を撮っているわけではないからです。美しいと思った写真のシャッタースピードを知ったとしても同じような美しい写真を撮ることができるわけではありませんね。
被写体の美しさは、自分の意思とは関係なく、ただやって来て、いつの間にか過ぎ去っていくものです。それが瞬間というものであり、その美しい瞬間をキャッチすることが撮影者なのではないでしょうか。
では、被写体の美しさとはなにか?
学生時代の頃、派遣会社でバイトをしていました。
派遣先は大体が一日中稼働している工場で、主に巨大なコンベアから流れてくる製品に欠陥品がないかチェックするような仕事でした。製品は飲料水だったので、工場から支給される無菌の白衣と白い帽子とマスクが絶対に着用しなくてはいけませんでした。これを着用して鏡の前に立ってみると、好きな女性に絶対に見られたくない恥ずかしさが当時はありました。髪の毛が1本も出ないような帽子だったので、自分の顔が裸にされたような気分だったからです。そして最も嫌だったのは、休憩室でした。飲料水の工場だったので、液体の湿気と機械の熱気が工場中に充満していて、体は湿気と汗でベタベタになっていました。この状態で、たくさんの従業員が休憩する部屋はベタベタの人間が50人ぐらい押し込まれた部屋だったので、鼻で呼吸をしたらいいのか口で呼吸をしたらいいのか・・・・。あの忘れられない人間の匂いといったら・・・。
ベタベタの喉を潤すためにジュースを飲もうと自動販売に向かっていくと・・・・
「なんてことだ!」
先に並んでいた人が腰を曲げてジュースを手に持って振り向いた瞬間、そこには私と同じちょっと恥ずかしい帽子を被った美しい天使がいるではありませんか。
「あ、あ、あの〜、顔が全裸ですが、な、な、なぜあなたは美しい人なのですか・・?」
目が二重で大きくて鼻がスラッとして高い、顎がシャープで唇はふっくらしていて大きい、まつげにボリュームがあって歯並びが整っている。そして肌がツルツル・・・。
「もしかして、これはドラマの撮影かもしれない。女優が工場の従業員の役をやっているんじゃないか・・・・」と言っても大袈裟ではありませんでした。
顔をベースとして目、鼻、口などのパーツのバランスが美しかったのです。
では、『被写体の美しさはルックスが決定的なのだ!!』という定義をすればいいでしょうか?なにか違う気がしますね。
日本一高い山の富士山は美しいとよく言われますが、ゴミ投棄などの環境が悪くて自然遺産ではなく、文化遺産になったそうです。ある一面から見れば美しいが、ある一面から見ればそうではありません。どんな山にもある美しさはないのでしょうか?
「シンドラーのリスト」の映画に登場するオスカー・シンドラーという主人公がいます。
第二次世界大戦時にナチスドイツがユダヤ人をたくさん殺していたのが時代背景です。
朝起きて顔を洗うように・・・人を殺すことが日常的だったのです。
ナチ党員は朝の太陽の光で目覚めてベットから目をこすりながら起き上がって、ベランダに出ます。ベランダから見えたのは、ふらふらに歩くユダヤ人でした。そのユダヤ人を見て、壁にかかっていた銃を手に持って撃ち殺しました。 主人公の実業家シンドラーもナチスのメンバーでした。シンドラーの日常生活は、お金持ちが集まる利己的な社会で生活していて、たくさんお酒を飲んでたくさん女の人と遊んでいました。
そんな実業家のシンドラーは、戦争を利用して儲けを企んで工場の経営をしました。工場で作られていたのは、軍で使う鍋や砲弾などを生産していて、巨大な軍需工場となっていきました。従業員は800人ほどになり、400人ぐらいはユダヤ人でした。
ユダヤ人を雇った理由は、単純に安い賃金でこき使うためでした。
ある時、ナチ党員が特別な意味もなくユダヤ人を銃で撃ち殺すのをシンドラーが見かねて彼を止めるシーンがあります。
「力とは人を殺す正当な理由がある時に殺さないことだ。」
そして、ある皇帝の話を持ち出します。
「皇帝の話を知っているか?盗人が引っ張りだされて、皇帝の前にひれ伏して命乞いをする。殺されると知っていてね。だが皇帝は、彼を許す。その虫ケラを放免するんだ。それが本当の力だ。」
シンドラーはユダヤ人を金儲けのための道具として見ていましたが、シンドラーがユダヤ人に対して変化していきます。
シンドラーはアウシュビッツ収容所に送られるユダヤ人をナチ党員にお金を払って、工場で働かせるようにします。そのなかには、子供や女性も含まれていたのでシンドラーは単なる労働力として見ていたわけではありません。純粋にユダヤ人が殺されないために救い出しだのです。その後、ユダヤ人を救うためにシンドラーはおしみなく私財も投げ出して救うために翻弄します。ラストのシーンになると、ドイツは敗戦が決まってシンドラーは戦犯として追われる身になり、亡命するためにユダヤ人を残した工場から旅立つシーンがあります。シンドラーは車に乗る直前にこんなセリフを言います。
「もっと努力していれば、あと1人は救えたかもしれない。車を売れば10人、バッチの金を売れば2人は救えたかもしれない。たとえ1人でもいい、1人救えた。人間一人だぞ!このバッチで・・・努力すればもう1人救えたのにしなかった。・・・救えたのに・・・」
こう言い残して工場を後にして走り去って映画が終わります。
私たちはシンドラーのように葛藤しながらも正しい方向へ向かって生きるために困難を乗り越えていく姿を見た時に胸を熱くさせ涙を流します。シンドラーと現実の自分を比べた時に自分にはない特別なものを持っているからこそシンドラーは賞賛されるのです。
自分にはない特別なものとは、世界を正しく見ることによって、それが自分のエナジーとなっていることです。
シンドラーは、戦争がねつ造した特定の人間に対する間違った見方を脱ぎ捨てて、「私とあなたの正しい関係はなにか?」と葛藤しながらも「私はあなた」であり「あなたは私」という血の通った同じ人間として一人一人を見たのです。だから意味なく殺される私と同じ人間を救うことが行動の原則になったのです。
ナチ党員は戦争が作った権力に依存していたため「我々とそれ」というように人間を区別して見ていました。だから人間を利用することが行動の原則になったのです。
私たちが世界に対しての見る角度は、正しい時もあるし、間違った時もあります。
言い換えれば、本当の世界を見ている時もあるし、嘘の世界を見ている時もあるのです。
例えば、四葉のクローバーを見つけて、本当に幸せが訪れるでしょうか?
「四葉のクローバーを見つけたことは、なかなか見つけることができない貴重なものだから、幸せが訪れるだろう。」という人もいます。
「四葉のクローバーを見つけたことは、自分と幸せとは関係がなく、ただそこに生えていただけなのだ。」という人もいます。
このような違いが起こる理由は、自分と世界を区別しようとしないからなのです。だからユダヤ人を殺してもいいと認識したのは、間違った世界と区別しようとしないから起こったのです。世界は自分とは関係なく存在します。自分の勝手な見方によって世界が決定されるのではありません。出発点は自分以外の世界から作られます。
正しい見方をすれば正しい行動ができるのが人間なのだと信じます。それが人間の持つ美しさなのではないでしょうか。
だから、被写体の美しさを知るために大事なことは「私はあなたで、あなたは私」ということ念頭に置いておくことなのかもしれません。撮影者と被写体は別々ではないのです。
それは、単に撮影を共にしているということではありません。
私が写真を表現すると同時に、写真が私を表現しています。
また、撮影者が被写体という人間を規定すると同時に、被写体が撮影者という人間を規定してくれるのです。
写真は便利な道具だから私が見ている世界について簡単に記録できます。簡単にできるからこそ、決められた形式にはめ込むことではなく、自分と被写体が持っている美しさについて考えて、お互いに差し出し合って撮影することが面白いと思うのです。
成人の美しさはなんだったのだろうか?
ほとんどの人が次はどうやって撮影しようかと悩みながらシャッターを切っていくでしょう。だから7才ぐらいの子供の延長として撮影することが多く、たいてい7才と同じようなポーズを要求してしまいます。二十歳の男に対するそうではなく、成人を迎えた1人の人間として見なければなりません。撮影に一緒に来るお母さんとお父さんの子供であり、兄から見たら弟であり、恋人から見たら一人の男です。
それを確認できたのが、海外旅行を友達と行ったという話・・・。
最近、かわいい恋人がいるという話・・・・。
スーツと革靴をこだわって自分で買ったという話・・・・。
そして、母親がずっと財布に入れている成人が1才頃の色褪せた写真でした。
義務教育という社会から卒業して、想像でしかなかった大人のイメージが現実となる扉を開こうとしている成人の姿がありました。それが、恋人かもしれないし、海外旅行かもしれないし、スーツと革靴かもしれません。親から離れて子供から大人になるということを、現実に今も生活しています。顧客は撮影と時にだけ現れるのではなく、私たちの知らない場所で過ごしています。
だから、私が成人に対して「〜らしく」と思っていたとしても、現実に来る成人は「〜らしく」という枠にはめ込むことができないと思うのです。
私だけではなく、私が成人に対する美しさと成人個人の持つ美しさを差し出して出会った写真がこの1枚なのです。
私が成人に対する美しさとはなにか?と考えたときに、私も革靴でした。
アルバイトをしてある水準以上の高価なモノを買って身に着けることは、自分は子供ではないという社会的な証明をしたかったのです。その象徴として革靴だったのです。
子供から大人になったと自己表現する精一杯の方法だったのです。
この成人も同じようにスーツと革靴に特別な想いがあったのです。
写真はこういった内面的な存在を表現することですし、四角の中の構成要素がこの1枚の表現のために意味のあるものでなければならないと信じています。

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それは、出会う全ての人が生きている証を確認できる場所になること。
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