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ライフスタジオシーズン2の 理論的根拠と模型

投稿日:2015/6/15

2224 0

 
 
 
ライフスタジオシーズン2
理論的根拠と模型
 
(シーズン1からシーズン2に向かう理論的案内書)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2015-03
パクウギュ
 
 
 
 
 
 
 
目次
序論. 3
本論. 5
1部:私たちはどのような共同体でありたいのか?. 5
-自立とは?. 5
Ⅰ.自立した人たちの経済共同体. 5
Ⅱ.正しい共同体(または社会)とは?. 7
Ⅲ.自立とは?. 23
2部:何が私たちの自立を邪魔するのか?-不平等の存在方式. 26
Ⅰ.不平等の合理性1-不平等が社会を組織する. 27
Ⅱ.不平等の合理性2-エリートが社会を組織する. 29
Ⅲ.なぜ人々は不平等を受け入れるのか?-イデオロギー. 32
Ⅳ.なぜ人々は不平等を受け入れるのか?-恐怖と規律. 35
Ⅴ.不平等から抜け出す道. 37
3部:自立のための方法. 39
Ⅰ.自立のための方法. 39
Ⅱ.参与は手段であるか?目的であるか?. 41
Ⅲ.真正なる参与とは?. 44
Ⅳ.直接参与のための二つの条件. 47
結論. 51
Ⅰ.「組織した組織」と「組織しない組織」の調和. 51
Ⅱ.最後に. 53
 
 
 
 
 

序論

 
 
 
いつの日からか私たちは話の中で「シーズン1」もしくは「シーズン2」という言葉を使用するようになった。今までライフスタジオにおいて作られた色々な組織または計画の名前の中で悪くはないと思うけれど、果たしてそれらが意味することを正確に理解して使っているのだろうか?だからまずは、本格的な文章を書いて行く前に、「シーズン1」そして「シーズン2」の概念を簡単に整理して見ることにする。
 
「シーズン1」は「今」だ。
 
今という言葉は、私たちがライフスタジオで仕事をし、学習をし、遊び、飲んでいる今の全ての状況を説明する言葉だ。しかし、私たちが永遠にこのように生きて行くのであれば、敢えて「シーズン1」という名前をつける理由はない。言い換えるなら、「シーズン1」があるということは「シーズン1」でないものがあるということであり、もっと言うならば「シーズン2」があるということだ。そして「シーズン1」から「シーズン2」に変わるときに、何かが変化するということである。では、「シーズン2」は今と何が異なるのだろうか?
 
「シーズン2」は「自立」だ。
 
ここで言う自立は「自立した人たちの経済共同体」で言う、まさにその自立である。私たちが今の状態から抜け出し、新しい私たちとして生きて行くためには、他の何よりも正にその「自立」が必要だ。しかしこの自立の意味もまた、「シーズン1」や「シーズン2」と同様に明らかでないことは事実だ。だとしたら、「シーズン1」と「シーズン2」の分かれ目である重要な基準でありながら、私たちがそれほどまでに追求する「自立」の意味を明確にして、その「自立」をなすことができる方法を作ることが重要だ。だからこの文章は、「自立」を中心として私たちがどのように行動すれば「シーズン2」に行くことがでいるのかに対して共に論議することができる理論的資料になってくれたらと考える。
 
この文章の本文は、3つの部分に分けられる。
 
1部『私たちはどのような共同体でありたいのか?』は、私たちが追求する自立の概念を整理して率いて行くための方法として、良い共同体(または良い社会)に関して人々が多様な方法で追求している政治哲学を中心にして話を展開した。もちろん政治哲学以外に経済学、社会学、哲学などなど…様々な方向から接近することもできるし、どの視線から出発したとしてもその答えは一箇所に集まるようになっているだろう。それにもかかわらず、政治哲学を選んだ理由は3部にて説明することになる。
 
2部『私たちはなぜ自立できないのだろか?』は、ライフスタジオの目標でありながら、同時に私たちの人生の大きな目標である自立をすることができない理由はなんであるかと言うことに対して明らかにしてみる。同様に、その原因を見つける方法は様々ではあるが、可能であれば理論的な接近として社会科学的な方法で接近して見ることにする。
 
3部『自立のための方法』結局重要なのはこの部分であると考える。私たちが実際に自立するためにはどのようにしなければならないのか?私たちは今、何が不足していて、何をしていないために自立できずにいるのか?3部では、これらの問いに対する方法的代案を見つけることにする。
 
 
この文章の題目が、「ライフスタジオのシーズン2の理論的根拠と模型」(シーズン1からシーズン2に向かう理論的案内書)である。題目があまりにも大げさで、身が縮まるようだが、それでも題目にあった文章になるように経験または純粋哲学に基盤を置いた説明よりも、学術的で科学的な説明にできるよう努力した。だから、既存のライフスタジオで使用していた文書の内容よりは発音しにくい人たちの理論をより多く引用した。(だから残念ながら遊び、共感などの話はほとんどない…-_-;)よって、既存のライフスタジオでは使用されなかった難しい概念も出て来るが、最大限私の水準でも理解することができるように書き、全体的にチョヒョングン教授の文章をたくさん引用したことを明らかにしておく。そしてこの文章の内容は、非専門家が書いたものであるため、間違いがある可能性が120%である。間違いが発見された場合は、即時に連絡をいただきたい。
 
 
 

本論

1部:私たちはどのような共同体でありたいのか?

-自立とは?

 

Ⅰ.自立した人たちの経済共同体

-ライフスタジオの中には多くの談論と私たちが共通で追求するものを規定する言語がある。全ての談論と規定は、それ相応の意味でライフスタジオを形成し説明している。その中には顧客とスタッフの関係を表す言葉もあり、ライフスタジオが社会とどのように繋がっているのかを意味する言葉もあり、店舗と店舗間の関係を表す言葉もあり、写真を規定する言葉もあり、個人の行動を表現する言葉もある。しかし、この全ての内容をひとまとめにしてくれる代表的な言葉はなんであろうか?
 
正に、『自立した人たちの経済共同体』であると考える。
 
ここで言う「人たち」はスタッフに限定することもできるし、もっと広い範囲に拡張することもできる。「経済共同体」も「経済」にポイントを置くこともできるし、「共同体」にポイントを置くこともできる。しかし私たちは普通、このスローガンを口にするとき、どの部分にアクセントをおいて読んでいるだろうか?おそらく多くが『自立』であると考える。なぜなら私たちはこの文章を読む以前にも「人たち」であったし、その正確な意味がなんであるにしても私たちは今もひとつの「経済共同体」をなしているからだ。しかし自身が自立したと考える人は意外にも多くはない。誰かが言うように、やはり全てのスローガンは現実においてかけている部分を意味する。私たちはまだ、多くが自立できていない。
 
ここで一つ、異なる話をして見ることにする。障害者たちを障害者強制収容施設から社会に出て来られるように手助けをする社会運動家の言葉を聞いてみよう。
 
『障害者の方達を社会に連れて来る中で受ける質問は、ものすごく典型的です。友人に会ってもいいですか?友人が家に遊びに来てもいいですか?外出してもいいですか?トイレはいつでも行ってもいいですか?ものすごく細かい部分まで許可を得ようとされるのです。』
 
社会運動に関連した話をしようとしているわけではない。ここで言いたいことは、収容施設から出てきた人たちと私たちの反応が驚くほどに同じであると言うことだ。だとしたら私たちは一体どこに閉じ込められて生きてきたと言うのだろうか?
 
もっと憂鬱な話をしよう。この文章を読んでいる人の中で自立がどのようなものであるのか自信を持って説明することができる人がいるだろうか?私を含めて私たちの多くは、自立がどのようなものであるか考えないままそれを追求している。「経済的自立」だと言う人もいるだろう。もちろん、経済的自立が重要だ。しかし経済的に余裕がある人と自立した人生を同じであると言うことはできない。自立するために経済的な余裕は必要条件であるに過ぎない。絶対に十分な条件でないと言うことは、多くの経済的余裕を持つ人々が自身の「自立できていない人生」で直接証明してくれている。
 
だとしたら、本格的に私たちが追求する自立について考えて見ることにしよう。いや、私たちが定義づけることにしよう。もちろん自立について知り、接近する方法は32万種類ほどあるだろう。滝に当たって10年ほど修練をする方法もあるだろうし、富士山に登って死ぬまでキノコと薬草だけを食べて生きることも自立の一つの方法である。しかし私たちはお酒も飲まなければいけないし、デートもしなければならない。少なくとも私はそうである。一言で、私たちが追求する「自立」は「孤立」とは異なる言葉である。完全に誰かの干渉もない自立を望むのであれば、無人島に行けば良い。しかし私を概念化させるためには相手がいてこそ可能なことである。
 
では今、お互いがつながりあう私たちの人生の中での自立はどこから始めなければならないか?
 
私たちが無人島で一人で生きる自立でないのであれば、社会の中で自立をすることができる条件がどのようなものであるのかということを悩むところから始めるのはどうだろう?
 
どのような社会的条件において私たちは自由な人間になり、お互い平等に対することができる正しい状態になれるのだろうか?
 
正しい共同体(または社会)であれば、私たちに自立をもたらしてくれるのではないだろうか?
 
 
 

Ⅱ.正しい共同体(または社会)とは?

 
A. 功利主義
 
− 私たちを自立に導いてくれる正しい社会の最初の選手は「功利主義」である。「最大多数の最大幸福」という功利主義のスローガンが聞きなれない人も「多数決」の原理であると言えばすぐに理解できるのではないだろうか。もう少し詳しく言うならば、「個人でなく、社会の快楽が最大になるように決定することが正しいこと」であると言う理論である。もちろんここで言う快楽は、SまたはMだけのことを言っているわけではない。美味しいコーヒーを飲んだときの快楽、社会福祉をして感じる快楽、すばらしいピアノ演奏を聴いて感じる快楽など、全てのことを言う。
 
しかし、私たちが正しい社会に近づくための基準が「快楽」であると言われると変な感じがするが、改めて考えてみれば意外にも論理的な話である。アリストテレスの幸福追求やエピクロス学派の快楽主義で主張するように、人間は幸福を追求しながら生きて行く。しかし私、もしくは私たちに幸福であると言うことは、苦痛が少なく快楽が高い状態であると言える。もう一度言うと、人間が究極的に幸せになるためには、苦痛を減らして快楽を高めることによって可能であり、よって社会全体的に快楽を高めることが正義であると言うのが正に功利主義の主張である。
 
19世紀に最初に登場したこの功利主義は、ものすごく進歩的な思想であった。王と貴族、少数のブルジョア、そして教会が権力を独占していた時期に主張した「功利主義」もしくは「多数決」には、全ての人は同等であると言う原理が溶け込んでいたためだ。だから功利主義者たちは当時すでに民主主義による普通選挙を主張したし、普遍的な福祉の概念を作るのにも大きな役割をした。例えば、パンが一つあるときに、お腹がいっぱいな人とお腹を空かせた人のどちらにあげなければならないだろうか?答えは、お腹を空かせた人だ。お腹を空かせた人がもっと大きな快楽を感じることができるからだ。では、パンがふたつあったら、一人の人が全て食べるのが良いだろうか?それとも一つずつ分け合って食べるのが良いだろうか?答えは仲良く一つずつ食べるのが良い。一人の人が最初に食べるパンの快楽が100だとすれば、二番目に食べるパンの快楽は空腹が満たされているため98程度に落ちてしまうからだ。経済学では、「限界効用逓減の法則」と言うような原理である。よってお互いに分け合って食べる方が、より社会的快楽を高めることができ、そのような考えの延長として、施恵の観点ではなく科学の観点から「福祉」の概念が発生するようになったのだ。
 
このような原理だけでなく、功利主義の最大の長所がある。正に決定が容易であることだ。例えば、所沢店でスタッフが一緒に旅行に行こうとするときに、スペインとインドのふたつの場所で意見が分かれたとするなら、どのような方法で一つを選ぶことができるだろうか?色々な方法を試みることができるが、最終的に民主的な方法は多数決しかない。もちろん社員旅行くらいの事案であれば、ジャンケンで決めることもあるだろう。しかし消費税を5%にするか、10%にするかを決定するために国会で党の代表たちがジャンケンをすることはない。ジャンケンは正当に見えるが、そのように運に頼るのは正しくないと考えるためだ。このように考えると、やはり完璧に正しい社会と言うのは、功利主義から見つけ出させるように見える。
 
 
しかし、私たちが現在、一般的に持っている功利主義のイメージは、これとは大きく異なる。功利主義に対して少し関心があった人であれば、20世紀以後の功利主義は、少数者を差別する論理であると考えるのが普通である。ここで少数者と言うのは、有色人種、女性、障害者、性的少数者、外国人、非正規職などである。功利主義の観点から見るのであれば、この人たちの快楽は全体の快楽に大きな影響を及ぼすことができない。一言で、少ない数の障害者のためにバスを改造することは、大多数の非障害者には必要のない行動であり、そのようなことに税金を使用することは、多数者に使用して異なる快楽をより多く高めることができる可能性を相対的に落としてしまう。よって、少数者の意見は功利主義の論理上、自然と排除される。
 
原子力発電所が田舎に設置されたのも、見方によれば功利主義的決定である。事実、東京の人々が発電所による恵沢を最も受けているが、誰も東京タワーの横に原子力発電所を設置しようとはしない。何にしても土地が高くてそうすることはできない。しかし功利主義的決定によって作られた原子力発電所による問題点と被害を多かれ少なかれ受けることになるのは、原子力発電の恵沢を受けている都市の人々ではなく、最も恵沢を受けられずにいる発電所がある田舎に住んでいる人なのである。
 
しかし、功利主義の問題点はここで終わりはしない。多数の効用を増加させることが正義だとするのであれば、効用を増加させることができないものは正義ではないと言う結論に至らせる。私たちが裁判をするとき、裁判官がどのような決定がより効用があり利益になるかと言う理由で犯罪者の刑罰を決定することはないだろう。ただ、その人がどのくらい悪いことをしたのかと言うことを持って、刑罰を決定する。このような場合にはなぜかカントが言った「道徳は義務である」と言う言葉に共感できる。
 
 
残念ながら今も、ピーター・シンガー(Peter Albert David Singer)のような功利主義の哲学者が、短所を補おうと努力していて「功利主義」の強力な長所があるにもかかわらず、私たちが追求する正しい共同体のための原理ではないように思える。
 
 
 
B. 自由至上主義
 
− 私たちに希望をもたらしてくれる二番目の原理は、「自由至上主義」である。まず名前が気に入った。なんだか私たちに無限な自由を与えてくれるように感じる。そして知っている人は知っているだろうが、この思想は私たちが生きている、その名も有名な「新自由主義」の理論的土台にもなっている。名前だけ見てもわかるように、この思想で最も重要に考えられているのは「自由」である。だとしたらここで言う自由とはどのようなものなのだろうか?
 
一般的な自由の概念に対してまず考えてみよう。私たちは普段、自由と言うとふたつに分けて考える。一つは「消極的な自由(何かからの自由)」であり、もう一つは「積極的な自由(何かのための自由)」である。
 
これがどう言うことかと言うと、「消極的な自由(何かからの自由)」は誰かによる干渉と強要がない個人的な状態をいう。私たちが普段、他人に被害さえ与えないのであれば私が一日中お酒を飲もうと寝ようと私の体を虐待しようと私の好きにする「自由」があり、この自由は他の力によって絶対的に保護されなければならないと考える自由がまさにこのような「消極的自由」の概念である。
 
反対に「積極的な自由(何かをするための自由)」はあることをするために持っていなければいけない自由を言う。能力、権利としての自由とも言われるが、例えば私が人間らしい人生を生きるためには、他人に必死にご飯を求めずに済む人間であるという自由があるため「無償給食」を行わなければならないと主張するように、もう少し広い概念の自由がここに属する。そのような意味で、積極的な自由は集団的自由の概念であり、自然に道徳または人権の概念、そして平等または再分配の概念を含むようになる。
 
このあたりで、この分野の専門家フリードリヒ・ハイエク(Friedrich August von Hayek)を迎えることにしよう。おそらく、ミルトン・フリードマン(Milton Friedman)と共に「新自由主義」の思想の父親的存在になる人だろう。ハイエクは人間の自由を4つに分けた。
 
 
1. 個人的自由(消極的自由)
2. 政治的自由
3. 形而上学的自由
4. 能力としての自由(積極的自由)
 
2番の政治的自由は、参政権と投票権、被選挙権のような政治に参与することができる自由のことを言い、3番の形而上学的自由は悟りを得た人が持っている超越的な自由の概念である。しかし、2番と3番の自由に関しては、ハイエクがそれほど重要視している概念ではないため、省略することにする。ハイエクは1番の「個人的自由(消極的自由)」と4番の「能力としての自由(積極的自由)」を比較し、強調しているのだが、特に1番の「個人的自由」がとても重要であり、絶対に棄損されてはいけない自由であると主張する。何か変な感じがする。普通、消極的なものよりも積極的なものの方がより良いもののように感じるのではないだろうか?しかし、ハイエクの考えは異なるのだ。
 
ハイエクが見たときに、誰かにおいて4番の「能力としての自由(積極的自由)」を成すため、すなわち誰かが何かをすることができる自由を補償し実現させて上げるためには、能力がない人にその人にない能力を作ってあげなければいけない。もちろん能力がある人はただその能力を発揮すれば良いのだが、能力がない人には積極的な自由の概念として彼がその自由を実現するために持ち得ていない能力を作ってあげなければいけない。易しく言うならば、不足した資源、お金を充当しなければならないため、足りない能力を埋めてあげなければならず、それは日常的に言う公共の資源または国家の税金の資源のことを言う。しかし税金を集めて公共の資源を作ると言うことは、他の誰かの「個人的自由」、特に私有財産権を侵害することによってのみ可能であると言うことである。簡単に言い換えるなら、お金持ちは税金をたくさん払うことによって他人の4番の自由のために自分の1番の自由を侵害されると言うことになる。さらに言い換えるなら、お金持ちは誰かの4番の自由のために手段になると言うことだ。なぜお金持ちが他人の人生を改善させるための手段にならなければならないのか?カントが聞いたらものすごく怒るに違いない。カントは『人を手段として待遇してはならず、目的として待遇しなさい。』と言ったのではなかっただろうか?おそらくカントは、お金持ちはお金が多いから、貧しい人のために少しは手段になってもいいだろうと言う言葉を聞いたら腹を立てるだろう。だから自由至上主義の哲学の専門家であるノージック(Robert Nozick)は、このカントの哲学を引用しながら論理を展開したのだ。
 
なんとなくわかるような気もするが、それでも何か心に引っかかる。ものすごく論理的な考えに偏った人と対話しているような気分だ。私たちの全ての人権のために、困難な人を助けてあげようと言うのに、あまりにもけちで、ずるであるような印象すら受ける。しかし、彼らだって他人を助けることが嫌なわけではない。自立的な寄付や慈善は良いものであるといい、また推奨している。しかし彼らが制度として消極的な個人的自由だけを主張する理由がある。国家または集団が良いことをすると言う目的で、個人の自由を侵害し始めるのであれば、その限界をどこまでに限定することができるのだろうか?区分することができる部分で確実に区分せずに曖昧な基準を適用するのであれば、結局自由の概念ははっきりしなくなるし、権力の論理または力の論理に個人的自由が荒らされざるを得ないと言うのが彼らが消極的な自由を必死に守ろうとする理由である。
 
やはり強力な理論である。私たちがこのような世の中を生きているために、より私たちを強く支配している理論でもある。しかし彼らがこのように個人的な自由を強力に守らなければならないと言う論理は、私たちが持っている個人的自由と言うものが生まれたときから先天的に持っているものであると言う概念から出発する。しかし実生活において、果たしてそうだろうか?アフリカの貧民とスウェーデンのCEOに対して、生まれたときから適用される同一で普遍的な個人的自由の物差しを当てることができるだろうか?結局、実生活で彼らが言うように一般論的で絶対的な、時代と場所に関係のない自由を証明することは簡単ではないようだ。やはり人間の個人的な自由も社会の中での関係から規定されるものであると見ることができる。「黒人は黒人である。ただ、特定の関係の中でだけ彼は奴隷になる。」と言う資本論の内容も、正にこのような相対的、社会的個人の自由を逆説的に表現した言葉である。
 
また、彼らの論理に従うのであれば、所有の権利を100%個人のものとして主張しようとするのであれば、100%個人の努力によって発生したものでなければならない。しかし私が主張している権利は皆、私の努力によって生じたものなのだろうか?私たちは私たちの国籍から、父母、社会的など・・・私たちが選択することができないものに取り囲まれている。このような状況では、ノージックが言った「原始取得の正当性」を満たすことはできない。
 
このように自由至上主義に反論する主張もあるが、未だに自由至上主義の主張は利己的な私たちの心に十分な正当性を与えてくれている。ノーベル経済学賞を受賞したゲーリー・ベッカー(Gary Stanley Becker)と言う経済学者は、人間の全ての行為は人間の合理的な選択として説明が可能であると言うことを話した。言い換えるならば、私がする全ての行為、例えば朝コンビニでコーヒーを買う行為またはお金を稼ぐために会社に出勤する経済的行為だけでなく、母が子供を苦労して産み育てる行為または地下鉄で危険にさらされた子供を自らの命をかけて救う行為も結局のところ個人の合理的な選択によるものであり、そのような決定は全て人間の利己的な欲求を満たすための決定であると言うことだ。簡単に言うなら、全ての個人の判断は、利己的であり合理的な人間が自身の利己心を満たすための決定であるということだ。極端ではあるけれど、おかしな見方をするならば、なんだかかっこいい言葉のようにも聞こえる。しかし、事実ゲーリー・ベッカーの主張は学問的には隙が多い。ゲーリー・ベッカーはこの世の全てのものは利己的であると言うことを前提にした上で、どのような例もその論理に合わせて説明して行く。しかし主張はあるが論証がない。母親が実際に自身の利己心で子供を育てたのか、利他心もあったのかは証明が不可能な主張である。また、この世の全てのものが「利己心」なのであれば、利己心と言う概念自体が不可能である。「シーズン2」があってこそ「シーズン1」があるように、利他心が存在してこそ利己心と言う概念も説明が可能なのである。全てのものを説明しようとする理論は、何も説明することはできない。難しい言葉では、ゲーリー・ベッカーの論理は分析的弁別力がない主張であり、のちに説明する「イデオロギー」的な主張に過ぎない。
 
このように私たちには、「利己心」と言う心もあるが同時に「利他心」も持っている。自由至上主義は「利他心」という片方の目を閉じて世の中を見つめるように強要している。「利己心」の目だけで見つめる私たちが生きている新自由主義での実生活はどうだろうか?彼らが主張するように、個人的に自由であり、強要がない世の中だろうか?利己心だけを先だてて私たちの今の社会は、極端な富の不平等と人間性の喪失、そしてそれによる人間的基本権の毀損、また自然の破壊へと繋がって行く結果として、結局破局へと向かう危機感が大きくなって行っている。一言で私たちは今、「自由至上主義」者が主張するパラダイスとは全く反対に流れて行っていると言うことを、身を持って感じているのだ。
 
 
 
C. 自由的平等主義
 
−だとしたら自由な競争も良いが、もう少し平等な面での要素があった方が良いように考える。よって登場したのが、「自由的平等主義」である。おそらく現代の政治哲学の中で、世界的に大衆的指示が最も高い思想であるだろう。「自由的平等主義」と言う言葉自体を初めて聞いたのに、何が大衆的指示なのかと問う人もいるかもしれないが、もう少し簡単に解いて話せば理解できるはずだ。「自由的平等主義」を一言で言うなら、「機会の平等、結果の不平等」である。どうだろうか?よくはないだろうか?おそらく日本でも韓国でも、大衆的な指示が最も高い政治思想であるだろう。
 
自由至上主義の短所である機会の不平等と貧富の格差もなくし、結果の平等を主張する社会主義における成就するための動機を減らしてしまうと言う短所も補うことができる完璧なアイデアのようだ。しかし、小さな問題が一つある。完全な機会の平等を作ると言うことが果たして可能なのだろうか?例えば、学校で子供達に皆が同一の教育をするならば機会の平等であると言うことができる。しかし、父親が教授である子供と一般の労働者の子供の不平等はどうすれば良いのだろうか?また、男女差別や人種差別のように歴史的に積まれた不平等の中でどのように実質的な出発の平等を作ることができるのだろうか?このような簡単な質問にも簡単に答えることができない。しかし、理想と現実は異なるのではないだろうか?まず、「機会の平等」ということを理想として定め、その理想を実現させるために難しくはあるが現実では制度としてこのような難しい問題の答えを一つずつ作って行かなければならないのだと主張するのであれば、なんだか虚しくはあるが反対する気も起きない。
 
しかし残念ながら、小さな問題がもう一つある。各自が生まれながらに持っている才能の差はどうするべきなのか?私が一生懸命バスケの練習をしたとしても、マイケルジョーダンのようにバスケがうまくできるだろうか?生まれながらの才能の差はしょうがないにしても、問題は残る。その才能を認めてあげるのか、それとも認めるべきでないのかは、私の能力とは関係なく、時代、場所、社会、文化によって決定される。簡単に言うならば、メッシやロナウドのようなものすごいサッカーの才能を持って生まれて、素晴らしい成功を果たした人も500年前に生まれていたり、もしくは内戦中であるアフリカの部族民として生まれていたなら、何の意味もない才能である。反対に、私は舌をクローバーの形にすることができるすごい才能を持って生まれたが、今の時代では何も認めてはくれない。このように才能による不平等もまた、その才能が社会的に認められる才能になるものから離れることにより、私たちが望んでいる「機会の平等」、「出発の平等」は始めから不可能なもののように見える。
 
 
しかしここで、「自由的平等論」に救世主が登場する。まさに「ジョン・ロールス」である。ジョン・ロールスは才能の不平等のせいで、原則的に「機会の平等」が難しいと認める。だから「無知のヴェール」という面白い提案をする。簡単に言うならば、私が法を作ってすぐに死に、そして再び生まれるのだが私が誰として生まれるのかはわからない。ジョーダンとして生まれることもあれば、パクウギュとして生まれることもある。だとしたら私がどのように法を作るだろうか?おそらく、ジョーダンにも才能による補償を与えるだろうが、才能がないパクウギュもジョーダンほどでなないにしても十分に生きて行くことができる富と名誉を得ることができるルールを作るのではないだろうか?ジョン・ロールスの言葉をそのまま引用するなら、「社会的不平等は社会において最も不遇な人々に利益となる時にのみ正しい」と言う。簡単に言うなら、福祉をものすごく強化して「自由的平等論」の短所を補えば、才能または社会的不平等による結果の不平等を受け入れることができると言うことだ。当然なことだが、ここで言う「福祉」は普遍的な人権のための積極的な自由の概念で接近する福祉ではない。私が選択したものに対してのみ責任を取るだろうと言う個人主義を基盤にして出発した福祉の概念だ。(参考までに、この文章で常に行っている「個人主義」は「集団主義、共同体主義、社会主義」などの反意語の概念であり、否定的な意味で使用される「利己主義」「自己中心主義」とは無関係である。)
 
それなりに理解できる。だから人気が多い思想である。しかし、やはり何かが不足している。自由に関してもっと先輩であるジョン・スチュアート(John Stuart Mill)の言葉で、「自由論」の時からこのような論理に対して攻撃していた部分ではあるが、このようなジョン・ロールス的な方法は根本的な解決策ではなく、事後に若干矯正する水準であるということだ。簡単に言うなら、自由主義または資本主義が持っている根本的な矛盾を解決するのではなく、表面に浮き出ている現象のみを応急処置する方法であるということだ。
 
そして今までは「機会の平等」の部分だけを主張していたが、「結果の不平等」にも問題がある。私がある成果をなすなら、それに対する結果は私のものであるということが自由主義の核心である。しかし成果をどのように定義して測定することができるだろうか?為替取引でものすごいお金を稼ぐ為替ディーラーと米を作る農夫のうち、誰の成果をより高く見なければならないだろうか?一般的に、為替ディーラーがもっと多くの富と栄誉を得るため、為替ディーラーがより多くの業績を作るものであると考えられそのように社会的に認められる。しかし実際にそうだろうか?事実、資本主義の現実で為替ディーラーがより多くの補償を受ける理由はその行為により大きな価値があるために多くの補償を受けるのではなく、多くの補償を受ける力があるために価値があるものとして受け入れられている。もう一度言うと、結果の不平等を認めるためには、為替ディーラーがより多くの業績をなしたということが証明されなければならないのだが、誰が、どのようにして彼の業績を認めるのかという質問に対して、自由的平等論では答えがない。
 
なぜか出発は良かったのだが、結論は「自由的平等論」も私たちを満足させてはくれないようだ。むしろ実生活では現実化されにくい『出発の平等』の論理で現実の不平等を合理化する理論となって行く危険性まで見受けられる。
 
 
 
 
D. 共同体主義
 
− 私たちの社会に、幾つかの方法として深く関連がある三つの方法「功利主義」「自由至上主義」「自由的平等論」が、どれも長所はあるが致命的な短所も見られた。この三つの方法がみな普遍的で抽象的な原則を基盤にする政治哲学であるため、今度は文化的解釈という少し異なる視線の方法で接近してみようと思うが、それが「共同体主義」である。
 
「共同体主義」で正義は「ある社会がその社会特有の慣習と制度の中に刻み込まれたその社会の構成員たちの共有する理解に合致されるように行動すること」であると言う。異なった言い方をするなら、正義と言うものは、ある抽象的で一般的な概念で定義することができないものであり、常に特定した歴史と文化の中の共同体の脈絡と流れの中でだけ定義されることができると言うことだ。
 
事実共同体主義は、西洋よりは東洋で理解されやすい概念だ。そのため、普通の対話において、‘I’または‘You’などの主語をよく使わずに、‘私’と言う単語よりも‘私たち’と言う単語をよりよく使用する。しかし西洋では共同体主義と言う言葉を慎重に使用して来た。第二次世界大戦を引き起こしたナチスを含む全体主義が連想されるためだ。しかし西洋においても、だんだん自由主義と個人主義の反発として共同体主義に対する主張が強くなって来ている。共同体主義が自由主義を批判する例をあげて見ることにする。
 
アメリカの下院議員であるヘンディー・ハワードはこのようなことを言った。
 
『私は一度も奴隷を所有したことはなく、誰かを抑圧したこともない。私の父の父の父も所有したことのない奴隷を所有したと言う罪の償いとして、私がなぜ謝罪と賠償をしなければならないのか?』
 
 
「自由至上主義」、「自由的平等論」どちらもハワード議員の主張に反論することはできない。個人的自由主義の立場で見るなら、ハワード議員個人は実際に黒人奴隷を持ったことはなく、よってはワード議員個人的には何の義務もない。個人的自由主義の立場から見れば、以前の西ドイツのウィリー・ブラント(Brandt, Willy)総理がポーランドの国立墓地を訪問して、戦争に対する謝罪をしたことは、有る意味ではおかしな行動である。ウィリー・ブラントは第二次世界大戦の時にドイツ人であったが、反ナチス主義運動をしていた人として、ある意味ではむしろ戦争の被害者である。しかし戦争が終わって、総理になってからは国家の代わりに自分が行動してもいない過ちに対して謝罪したのだが、これは必要ない行動であり、自由主義的観点からはおかしな行動であり、オーバープレイである。しかし私たちは、ウィリー・ブラントの行動がおかしいとは感じない。なぜなのだろうか?
 
私たちは完全な個人としては生きて行くことも存在することもできない。他人と言う概念がなければ、私と言う概念もないためである。人間と言う漢字を見ても、私たちは関係の中でのみ存在する。また、東洋だけでなく西洋においても、人間は関係の中で規定されてきたと多くの哲学者が言い、定義づけられている。西ドイツのウィリー・ブラント総理がそのように行動したことの根本的な原因は、「私」と言う存在は政治、社会、文化、歴史…によって規定され、その結果物を全て継承してきているためである。ハワード議員は奴隷を持ったことはないが、その奴隷を持っていた人たちが作った社会の遺産を受けながら生きていると言うことだ。彼は白人としての権利を持ち、その先祖が奴隷を搾取しながら作った政治、社会をそのまま引き継いできているのだ。反対に、現代の黒人は誰も奴隷ではないが社会的に繋がってきた不平等の結果を引き継いできているのである。それで、共同体主義の哲学者であるマッキンタイア(Alasdair Macintyre)は『私たち個人は共同体の話(敍事)の一部としてだけ存在する』と表現したのである。
 
このような脈絡で共同体主義は、「連帯」を強調する。単純に個人的な権利を保護するための目的ではない。福祉をしなければいけない理由も個人主義のように私の責任を確実にするためではなく、共同体の有機体的活動であるために一つの共同体として連帯の意味で主張される。それによって私たちは一部分が苦痛を受けると全体が苦痛を受けるように、共同体の連帯を通して共同線を共に追求しようと言うことだ。よってマイケル・サンデルが「これからの『正義』の話をしよう」と言う本で最終的にアリストテレスの有機体論を例に引用しながら共同体主義を主張したのである。
何だか心が温まり、ついに何かを見つけたような感じがする。しかし共同体主義もやはり楽観するには早い。共同体主義の理論に従うのであれば、個人は共同体のために存在することになる可能性がある。だとしたら「私」と言う個人は、主体ではなく客体になってしまう危険があると言うことだ。客体になってしまうのであれば、私たちが追求する「自立」とは一歩離れてしまうことになる。シェイクスピアの言葉を文脈に合わせて変えて引用するなら、「私」と言う存在は、ある共同体に役立つ道具になるにはあまりにも高貴な存在として生まれた。
 
よって共同体の原理を強調して行くと、全体共同体の意見に反対する少数者は差別を受ける可能性がある。共同体主義は既存の価値を強調するために、共同体の内部に向かって少数者や共同体の秩序を変えたがる人に抑圧的な姿を見せる可能性がある。一言で、共同体主義の原理は基本的に保守的な面が強い。
 
また、共同体が文化的連帯が強まれば強まるほどに、外部に対しては排他的になる可能性が大きい。イスラム文化と西欧文化の衝突を見ても分かるように、内部的に強力な連帯がむしろ外部的な連帯を邪魔する障害物になっているのだ。
 
 
 
E. マルクス主義
 
− そろそろイライラしてくる頃だろう。それでも頭のいい人たちが主張した話がどれも一定の限界を見せている。だとしたらもう少し極端な思想を見てみよう。
 
事実、内容がそれほど極端ではないのだが、なぜか韓国ではマルクスと言う名前だけを聞いても凄まじい印象を受ける。実際に個人的に幼い頃に受けた教育に基盤を置くのであれば、マルクスは悪魔の顔をしているように思えたし、後になって写真を見て知ったわけだが実際にもそれほど天使のような顔つきではなかった。しかしこの文章では彼の個人的な人生や全体的な思想について話がしたいわけではないので、マルクスが主張する正しい社会、その中でも「疎外された労働」の概念を中心に話してみようと思う。
 
まず、マルクス主義の立場で見るのであれば、「功利主義」、「自由至上主義」、「自由的平等論」この3つはどれも正義について話してはいるがポイントが所得の「分配」に合わせられている部分が問題である。一言で、どのようにして分配することが正しいのかに対してのみ関心が持たれている。しかしマルクスが見た時にもっと重要なのは、その所得を作り出す機会の正しい分配がより重要であると言っている。簡単に言うなら、誰かが生産手段を独占していることによって結果として必然的に発生する不平等が、より重要視されなければいけない部分であるのだが、上記の思想ではこの部分には全く言及されていないのだ。よって本当に正しい分配のためには所得ではなく資産(マルクスは生産手段であると表現している)の平等な再分配がより重要であると言う。そうでない「功利主義」、「自由至上主義」、「自由的平等論」は不平等と搾取を合理化する理論であると言うことだ。もちろん、「自由的平等論」も機会の平等を主張しているが、100%完全に機会の平等が不可能であるために、結論として「自由的平等論」も結果物としての所得を平等に分配しようと言う話に過ぎないと言うのがマルクス主義による主張である。
 
 
だとしたら、マルクス主義が見た時に共同体主義はどうなのか?共同体の価値をともに追求すると言う部分では似通った点がある。しかし、共同体主義は現存する現在の共同体それ自体が価値を持っていると言う理論である。しかし既存の秩序を維持していてはマルクス主義が追求する生産手段の不平等な部分を解消することができない。現在の共同体自体が正義ではないためである。だからマルクスは生産施設を共有する新しい共同体を作らなければならないと主張するのである。
 
 
よってマルクス主義では、生産手段の独占による「疎外された労働」と「搾取」と言う概念が発生する。簡単な内容ではないが、簡単な例で説明するのであれば、私たちは毎日取引をしながら生きている。100円を払って100円の価値を持っているデカビタを買う。もしも私がデカビタの価値が76円であると考えるのであれば、私は100円を払ってデカビタを買わないだろう。反対に、サントリーの会社でデカビタが135円の価値であると考えるのであれば、100円でデカビタを売ることはないだろう。私たちは、双方が同時にデカビタが100円の価値を持っていると考えるために取引をする。このように市場では、価格と言うものでその価値が自然と測定されその合意された価値によって私たちは交換する。これがまさに市場が持っている強力な力である。このように私たちは互いに同じ価値を持った「お金100円」と「100円の価値を持つデカビタ」を交換するのだが、このような交換原理を経済学では「等価交換の原理」であると言う。そしてこのような原理が労働の取引においても同じように適用される。スタッフが会社で働いてもらう賃金はそのスタッフの価値の程度で作られている。このような前提を受け入れる状態で実際の現実について考えて見ることにしよう。
 
 
私が机を作る会社を作るとする。
 
2万円を払って2万円の価値の木材を買う。
 
1万円を払って1万円の価値の工房を借りる。
 
1万円を払って1万円の価値の大工を雇う。
 
そうすれば、4万円の価値の机が完成する。
 
市場で4万円で机を売る。
 
 
完璧な「等価交換の原理」が適用された。しかし何か虚しさを感じはしないだろうか?何が変なのだろうか?この理論の通りであれば、どこにも利潤が発生していない。一体、私はこの仕事になぜお金を投資したのだろうか?実際に経済学で言う「等価交換の原理」が適用され、実際の資本主義がこのように進められるのであれば、誰も工場を作ろうとはしないだろう。しかし実際の現実では絶えず工場が作られていて、社長たちはお金を稼いでいる。だとしたら、どこから利潤が発生するのだろうか?
 
「木」なのか?
 
私が木に「お前は2万円を払って買ったけれど、私の利潤のためにお願いだから3万円の価値の木になってくれ」とどんなに話しかけても、その木の価値は2万円だ。
 
「工房」なのか?
 
私が工房に「1万円で借りたけれど、お前の価値は2万円だということを知っている。早く2万円の価値を発揮してくれ!」と話しかけても、工房の価値は変わらず1万円である。
 
だとしたらこのような追加利潤の神秘は一体どこで発生するのだろうか?
 
まさに「労働」である。
 
おかしい。少し前に労働者も価値に相当する賃金をもらっていると言ったではないか?
 
そうだ。価値に相当する賃金をもらっているのはそうだが、実際にはもらう賃金よりももっと働いている。労働を取引する側から見るのであれば、賃金を与えるけれど実際の現実ではもっと労働をさせているのだ。そしてこのように多く働いた分がまさに会社または資本家の利潤になるのである。上の例でみるならば、大工に1万円を与えたけれど、1万5千円分の仕事をさせているのである。そしてまさにここで生じる5千円が企業の利潤である。実際の現実を考えてみれば簡単だ。今、働いているスタッフがもらっている賃金よりもより大きい結果物を作り出すことが出来なければ、そのスタッフは会社に居続けることが出来ない。
 
だからマルクスが主張するのは、資本家が道徳的に悪い人であるために搾取しているのではなく、現実の労働交換市場のシステムの原理がそのようになっているのであり、このようにして搾取される分だけ労働者は自身の労働から疎外される。そして企業の競争の中で労働者はだんだんにもっと搾取されるようになり、それによってだんだんにもっと労働から疎外が発生するということである。
 
よってマルクスは、「経済学・哲学草稿」と言う本で、『労働が労働者にとって外的であること、すなわち、労働が労働者の本質に属していないこと、そのため彼は自分の労働において肯定されないでかえって否定され、幸福と感ぜずにかえって不幸と感じ、自由な肉体的および精神的エネルギーがまったく発展させられずに、かえって彼の肉体は消耗し、彼の精神は頽廃化する、ということにある。労働は、自発的なものではなくて、強制労働である。労働は労働者の本質に属さない。』と表現した。
 
だから、疎外された労働は資本主義の中で、異常な出口を見つけ出したのだ。労働を人生において完全に分離し手段化させたのである。現実的に考えて見れば、私たちはほとんどの人生と労働が一致したやりがいを感じることが出来るかっこいいカメラマンになる夢を持ってスタジオに入社した。しかし、だんだんに写真を撮る機械になって行く自身を見ながら思う。今の労働状況では私の夢をなすことが出来ないから昇進して成功してお金をたくさん稼いで、その後に私の夢である写真を撮りに行かなければ・・・と。しかしだんだんに私たちの考えを支配するのは昇進とお金を稼ぐと言うことに変わって行く。目的が入れ替わってしまう現象が生じるのである。
 
 
マルクスの主張力が感じられるだろうか?だから意外な人物であるムッソリーニ(Benito Amilcare Andrea Mussolini)も、「20代でマルクス主義者になってみたことがない人は馬鹿であり、40代になってもそれを捨てられずにいる人も馬鹿である。」とマルクスを言及するほどに、多くの人々に影響を及ぼした。
 
では、生産手段の共有を主張するマルクス主義は、私たちが望む自立のために正しい社会の希望になることが出来るのだろうか?先に登場したハイエクのような経済学者やカール・ポパ-のような科学哲学者など、マルクス主義の理論的な限界を論ずる人も多い。また、結局誰が所有の主人なのかということを重要に考えると言う観点で自由主義者と何ら変わらないと言う批判もある。しかしマルクス主義の限界は現実において確認された。マルクス主義は不正義の原因が私的所有にあると診断しその不正義をなくすために実際に私的所有を除去した共産主義国家が作られた。ソ連のような国家主導型社会主義もあったし、ユーゴスラビアのような従業員が企業を所有する社会主義などの試みがあったが、結果的にハイエクが予測したように個人的私的所有の撤廃にはより大きな集団の所有が存在しており、非能率的なだけでなくよりもっと大きな不正義の集団になってしまった。もちろん、これはマルクスが純粋に主張したモデルではないと言う反論もありえるが、だとしたらマルクスが科学的に必然的に登場すると言った正確なモデルがどのようなものであったのかと言う質問には沈黙が起こるだけである。
 
しかし、マルクス主義を韓国でのように死んだ思想として扱おうと言うことではない。明らかに資本主義の問題点を鋭く暴いて、新しい代案に対する洞察を私たちに与えてくれる。新自由主義の最大の恩恵を受けた者の一人であるジョージ・ソロス(George Soros)のような世界的なヘッジファンドマネージャーも2008年金融危機以降に『マルクスは私たちが注意しなければならない資本主義に関する何かをすでに150年前に発見した。』と言ったほどにマルクス主義は私たちに重要な観点を提供してくれている。しかし単純に生産手段の共有が正しく、その正しい社会は必然的に来ると言う主張だけでは、空虚な響きにしか聞こえないと言うこともまた事実である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Ⅲ.自立とは?

 
-自立を定義するために、いくつかの政治哲学に触れてみた。その中には色々な種類の自由の概念があり、色々な種類の平等に対する考えもあった。そしていくつかの方向で私たちが自立することが出来る条件に対する代案があった。しかし結論的に見るのであればどれも完璧に私たちを自立に連れて行ってくれそうにはない。実に残念なことである。しかしむしろここに私たちが望む「自立」のヒントが入っている。
 
 
私たちが望む「自立」は絶対的なものを信じて従うものではない。
 
 
ある思想またはある人の言葉を絶対的に信じて従うのであれば、それは究極的に依存である。カール・ポパーが「開かれた社会とその敵」と言う本で指摘したように、私たちの最終到着点が100%決められているのであれば、私が私の意見で選択し自立する可能性は0%になる。繰り返すと、先に述べた五つの思想が不完全であると言うことが「自立」を追求する私たちにとっては希望であると言うことだ。
 
しかし、少し変ではないだろうか?どんな思想も私たちに完全な正義と自立の条件を作ってくれないのであれば、私たちはどんな主張もしてはいけないと言うことなのだろうか?結論から言うのであれば、「NO!」である。絶対的に正しい意見はないけれど、
 
今この瞬間、今ここに、私たちに必要な正義は存在する。
 
だとしたら果たしてそれは何であるのか?もしもこの質問を聞いてその答えを誰かに聞くのであれば、その人は「自立」出来ていない人である。
 
繰り返すが、私たちが追求する自立が絶対的な状態ではないために、私たちが追求する「自立」の出発点は、「私が今私の人生で重要だと考えることに対する私の観点を持つこと」である。政治的な観点だというなら、先に説明したものの中でひとつまたは混ざり合った意見を持つことであり、経済学、歴史学、人類学、写真学・・・異なる全ての部分でも同じことである。すべてにおいて学者になれと言うことではない。今の状況で自身の観点を持つようにすれば良い。まさに今、私の周辺で起こっている些細なことに対する観点から始めればよい。私が今どのような基準で世の中を見つめているのかを整理してその観点を表現することが出来るように努力するのである。私たちはほとんどが、考えるとおりに生きているのではなく、生きるとおりに考えている。他人の観点ではなく、自身の観点を認識して整理すること、これが自立の出発点である。
 
そしてその次は、「自身が正しいと考える観点を私たち皆に適用」させるように努力すればよい。先に話したいくつかの政治哲学を主張する人々は自身が考えた観点が正しいと考えた。だから自身の意見を主張したのである。私たちも同じである。私たちが正しいと考える観点が生じたのであれば、そのように生きて行きそのように主張するしかない。行動して主張しなければ、それはまだ観点が生じていないのである。
 
しかし上で整理した自身の観点または意見を異なる人と対話してみると、自身が持っている観点と意見の限界に出会うことになる。このような限界は無条件生じるようになっている。『ファウスト(Faust)』という作品でゲーテが言ったように「人間は努力するかぎり迷うもの・・・」であるためである。小さなことでも自身の意見と相手の意見が対立したことがある人であれば理解できるだろう。私の考えと相手の考えは無条件異なる。それでも観点の対立を避けてはいけない。
 
だとしたらその限界に出会ったら避けたり放棄したりせずに、私を含めお互いの観点を補って修正していこうと努力すればよい。このような観点の差が対立する状況で「自身の過ちの可能性を認め、直していく態度」がまさに「自立」である。自立はある固定された状態を示す単語ではない。
 
「自立は人生の態度であり勇気である」
 
また、このような自立が先に書いた無人島での自立を言うのでないのであれば、結局このような自立の観点は個人の観点でだけに留まることは出来ない。「私」の観点の限界は「あなた」の観点の限界と出会う部分で作られるものであり、この観点の対立は私たちを新しい観点に向かわせてくれるだろう。このように私たち各自が持っている観点の限界を克服して行き、またそのような観点の克服を互いに助け合う状態になるとき、私たちは私たちを自ら「自立した人たちの経済共同体」であると呼ぶことが出来るのである。
 
昔、ある日、プラトンと言う人が道を歩いていたのだけれど、その前から知ってはいたけれど親しくはなかったと予想されているディオゲネスと言う哲学者に会った。しかし貴族社会だったギリシャでディオゲネスは奴隷もなしに苦労しながら野菜を洗い、その光景を見たプラトンは愉快に思ってこのように言った。
 
プラトン:あなたがディオニュシオス王にもう少しよく接していたなら、あなたは野菜を直接洗わずに済んだだろうに・・・
 
この言葉を聴いてディオゲネスは答えた。
 
ディオゲネス:あなた自身が野菜を直接洗うことができたなら、ディオニュシオス王の奴隷にならずに済んだだろうに・・・
 
私たちが追求する「自立」とはディオゲネスの態度に似ている。一方的に依存しようとするのではない。絶対的な力に頼ってもいけない。自立すると言う言葉はプラトンの考えるように、絶対的な方法または誰かに頼って絶対的な「権力」を得ることではなく、ディオゲネスの考えるように自立することによって今必要な「観点」と「能力」を持つようになることである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
本論
 

2部:何が私たちの自立を邪魔するのか?-不平等の存在方式

 
-ここで私たちはある程度私たちが追求する「自立」が何であるのか定義づけた。これは、私たちにとっての自立がどのような意味であるかが分かったということだ。ではここで私たちは分かったのだから、皆が自立のために行動するようになるのだろうか?私たちが今まで分からなくて行動できなかったのであれば、今分かったのだからこれからは自然に私たちは分かったことを行動に移していくことになり、そうなれば私たちにはパラダイスの人生だけが残っていなければいけない。しかし私たちは直観的に先に書いた話を一方では正しいことであると理解しながら、異なる一方では現実性のないそれらしい話であると受け入れている。簡単に言うなら『いい話なのは分かるけれど、それでどうしろと?』という答えが聞こえてくるということだ。
 
だとしたらどのような部分の問題があるために、自立に向かう障害が起きているのだろうか?私たちはある面では不合理な世の中に生きているということを知っている。周りを見ればものすごく多くの部分が不合理で不平等である。しかし異なる面では、それをそのまま受け入れて、さらにはそのような社会を維持するために努力している。なぜ私たちは自立を避けながら私たちが持っている固定観念を維持しようとこれほどまでに最善を尽くすのだろうか?
 
先に定義したように、「自身の観点で世の中を見つめ、そのような観点を他人にも同等に認めてあげ、そのような観点の差の対立から新しい観点を作っていく態度」が「自立」であるのであれば、どの部分において問題が生じるのだろうか?
 
まず、他人の観点も私の観点と同等に認める態度を持つというところで問題が生じる可能性がある。私たちが定義した「自立」という言葉の中には基本的に平等という概念が含まれている。なぜか文字だけを見ると自由と言う概念がより強いような気もするが、実際には平等という概念がより深く刻まれている。私が主体的に立っている環境は、他人も主体的に立っていることが出来る環境の中でだけ可能である。しかし他人の観点と私の観点を同等に考えない考え方、つまり「不平等」に対する固定観念が社会的に広く広まっている。別の言い方をすれば、人間が先天的に不平等に生まれたのでないと言うのであれば、私たちが生きている社会には私たちが他人と「不平等」であることが自然なこと、または「不平等」がより良いことであるという「固定観念」を強要し、私たちはそれを自然に受け入れているのである。そのような固定観念は平凡な私の脳の中にも十分に存在するほどに広く強力に埋め込まれている。このような状況であるために、そのような不平等の固定観念が、私たちが自立に向かう道を邪魔しているとみることが出来る。
 
しかし初めから自身だけの観点がないと言うことが問題であることもある。そして実はそれは決定的な問題である。しかしまずここでは、人間であればおかしな観点であったとしても、最小限の観点が一つ以上はあると仮定してみることにする。そうであれば問題は他人との関係の問題に戻っていく。自身の観点と他人の観点を同等に見つめられなければ、初めから対立が不可能である。また不平等の問題に戻ってきてしまう。
 
よってこの2部では、人間が不平等な存在であると言う主張について調べてみて、より進んで、私たちがどのような方法で不平等を受け入れているのかを考えてみることにする。
 
 
 

Ⅰ.不平等の合理性1-不平等が社会を組織する

 
世の中にはものすごく多様な不平等が存在する。階層、性別、人種、地域、世代、宗教、性の好みなど・・・そして一般的にこのような不平等は悪いものであると考える。道行く人を誰か捕まえて「平等」が良いですか?「不平等」が良いですか?と尋ねるのであれば、99.9%の答えが「平等」であるだろう。しかし時には不平等は良いものであると主張する人もいる。ランボルギーニに乗ってビバリーヒルズに住んでいる人が不平等を擁護するのに対して「スレギ(ゴミ)」だと言って耳をふさいでしまえばそれまでだが、ものすごく深刻に真剣になって人間の不平等が必要であると主張する人もいる。
 
そのような人の中で社会学者であるタルコット・パーソンズ(Talcott Parsons)と言う人がいるのだが、いったいこの人はなぜこのような考えを持つことになったのだろうか?パーソンズが考える世界観を「構造機能主義」と言うのだが、生命体を想像すればよい。例えば、私たちの体と機関の関係を考えてみよう。すべての機関は私が生きて行く上で必要な役割をしている。特に必要なさそうな爪も、私たちを可愛く見せたり鼻をほじったりギターを弾くために存在しているのではなく、体の最後の部分に加わる多くの刺激から体を守るために存在している。だから爪は私たちを保護して体はしきりに爪にエネルギーを送る。一言で相互依存的である。そのような意味でパーソンズが見る社会も同じである。すべての社会の要素は社会に必要である。さらには犯罪も社会に必ず必要である。私たちは罪を犯した犯罪者を見ながら社会生活をするときの正常と非正常の境界を周期的に確認させられる。また犯罪はそのような正常と非正常の区分を確認させてくれながら、正常な人を団結させる重要な役割をすると言うことだ。
 
その延長で不平等も必要である。なぜそうなのか?身体にも心臓のようにもっと重要な機関があり腎臓のようにさほど重要でない機関があるように、社会にもより重要なものとさほど重要でないものがある。しかし平等という名をもって、重要な位置をくじ引きで引いた無作為な誰かに務めさせるようではいけない。能力のない人が社会的に重要なことをするようになれば、大きな災害が起きることもあり得る。だとしたら重要な位置に、適していて能力のある人々が置かれるようにする方法は何だろうか?ここでパーソンズが発見したのがまさに「不平等」である。社会的に役割の重要度によって、名誉、尊敬、お金などの補償に差をつければ社会は努力と競争を通して自然に重要な位置に能力がある人が配置されるようになると言うことだ。一言で、社会的に医者が多くのお金をもらう理由は重要な機能を遂行しているためであると言うことだ。なんてことだ!私がお金を稼げない理由がこんなところにあったとは・・・。
 
しかし諦めるにはまだ早い。パーソンズと言う社会学者の名前を聞いたことがあるだろうか?おそらく社会学に関心がある人の中でも聞きなれない名前だろう。理由は簡単である。現代の社会学では忘れられた思想家だからだ。これは学界でその名前と共にその思想も忘れられたと言うことだ。
 
その思想が忘れられた理由の一つ目の理由は、その理論では社会的重要度によって不平等が存在すると言うのだが、このように複雑な社会で実際に重要度を測定して比較することが出来ないためだ。先ほど、医者が重要な機能を遂行するためにお金をたくさん稼ぐと言ったが、相対的に環境美化員がより重要でないと言うことが出来るだろうか?全世界の医者が皆消えて1年が経つのであれば、ものすごく多くの人が苦痛を受けた挙句の果てに死んでしまうだろう。しかし全世界の環境美化員が皆消えて1年が経つのであれば、人類はごみ山の中で伝染病で滅亡することになるだろう。だから環境美化員がより重要な位置であると言うことではなく、社会的重要度の測定が不可能であると言うことだ。
 
そしてその理論が消えた二つ目の理由は、その論理は「循環論理」であるからだ。何のことを言っているのかと言うと、「高い補償は重要な機能を遂行する人に与えなければならない。」と言う論理であるのだが、逆に重要な機能はどのようにして証明することが出来るのかと質問するなら、「高い補償を受けるものが重要な機能を遂行することを証明するものである」と言う答えが出てくる。それではまた一つ目の質問をしなければならず、ずっと同じ話が繰り替えされる証明することのできない論理になる。おそらく、明け方3時に居酒屋でお酒を飲まない人がお酒に酔った人の対話を聞くような雰囲気が演出されるだろう。
 
だとしたらパーソンズの論理は終わって、私たちには平等な世の中が訪れてきたのだろうか?問題は再び始まる。パーソンズの論理が学界では終わったが私たちの実生活ではとても強力に生き残っていると言うことが問題である。私たちにパーソンズの考えは論理的にではなく一つの信念として根付いているのだ。パーソンズの論理を攻撃する前には、パーソンズの考えに拒否感をさほど得ることがなかった理由は、私たちの内面には、私たちが不利益を受けるのはよくわからないけれど何かの競争で負けたせいであると言う考えが根付いているのである。私が社長よりももっと給料が少ない理由は、よく分からないけれど何か重要でないことをしているからであると無意識的に考えていると言うことだ。
 
このような状況と関連した実験もあったのだが、何もしていないAに9千円を与え、Bに千円を与え、それからインタビューをするのであればBは悔しがるだろう。そうではないだろうか?何の理由もなく差別を受けたのだ。だとしたら今度は少し異なって、まず何も言わずにじゃんけんをさせた後に、勝った人には9千円を与え、負けた人には千円を与え、インタビューをしたがこのとき千円をもらった人は悔しがりはしない。何故なのだろうか?彼は自身が負けたせいで少なくもらったと考えるのだ。事実ここでじゃんけんは何の意味もない行為であった。このように私たちは多くの場合に不平等に対して尋ねることなく、心の中の信念でパーソンズの考えを受け入れる。
 
 
 

Ⅱ.不平等の合理性2-エリートが社会を組織する

 
-また異なる視線で不平等が必要であると言う主張に耳を傾けてみよう。私たちは生きていく中で私たち皆は平等であると学ぶ。しかし実際の生活では少し異なる場合もある。恐ろしい権力者を見ながら世の中が不平等であると考えることもあるが、私自らが強い能力を持っている人またはエリートが私たちを支配しなければならないと考え、自ら不平等の道を選ぶこともある。このような思想の根源をたどっていくと「社会進化論」という思想に出会うことになる。立て続けに難しい話をして申し訳ないが、タイトルだけが難しいのであってそれほど難しい思想ではない。
 
「社会進化論」と言えば簡単にチャールズ・ダーウィン(Charles Robert Darwin)が主張した生物学的進化論を私たちが生きている社会につなぎ合わせた話だ。もう一度言うと生物学的進化論で話される「弱肉強食」、「優勝劣敗」、「自然淘汰」などの内容、言い換えるなら「強者は生き残り、弱者は死ぬ」原理を社会学に繋げた考えである。だから自然の法則に従って負けた側は弱く劣っているために負けたのであって不満を持ってはいけないと言う論理である。さらには弱者を助けてあげることも自然の法則に逆らうため悪いことになる。特にイギリスの社会学の父であるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer)は、『貧しい人を援助すると世の中は貧民であふれることになるだろう』とまで言った。
 
ハーバート・スペンサーが悪魔のような人であるためにこのような話をしたのではない。スペンサーは人類の発展を神学から形而上学に発展させ、近代においては実証主義に発展しなければならないと主張する。「実証主義」は簡単に言うと、証明することが出来ることだけが価値があると言う主張で別の言い方をするなら科学的に証明が可能でなければならないと言うことだ。そしてその科学の中でも生物学を重要に考え、自然に進化論に関心を持つようになった。しかしスペンサーが見たところ、生態系にも社会にも成長するという共通点がある。そして生態系のように社会も大きさが大きくなるにつれて相互依存性が大きくなるのだが、このようになると一カ所で問題が生じると全体に問題になるため各機関の管理と規制が重要になる。すると誰かはこのようなことをしなければならないのだが、誰がこのような高度化された技術をもって適切に管理と規制をすることが出来るだろうか?スペンサーが考えるところによれば、ギリシャの民主主義のように「くじ引き」で管理者を選ぶのであれば必然的に複雑なシステムを上手く管理する人が選ばれる可能性は低くなり、社会は混乱に陥ると考えたため、このような有機体的に複雑に成長する社会にはそのような複雑性をコントロールすることが出来る能力のある「エリート」がそのことをしなければならないと主張する。このようなスペンサーの社会進化論は世界的にものすごく影響を及ぼし、日本の福沢諭吉などの思想家にも影響を与えるほどに近代の日本の行動に大きく影響を及ぼしている。
 
このような社会進化論はだんだんに発展し、強者が弱者を支配する支配論理になった。日本が韓国を侵略するときの名目もまさに「社会進化論」の論理だった。エリート国家として歴史的に劣っている国を助けてあげると言うのが名目であった。事実、当時日本の韓国侵略を反対する韓国の思想家の中にも「社会進化論」に基づいて日本がアジアにおいて主導的な役割をしなければならないと主張するほどだった。今では実際には植民地を広めていく帝国主義の時代は終わったけれど、このような「社会進化論」に基づいたエリート主義は私たちの人生の中に根深く浸透している。
 
しかしエリートでない私たちのような人を憂鬱にする「社会進化論」にも強力な批判の声がある。一つ目の批判はチャールズ・ダーウィンが進化論で強調したのは、弱肉強食、優勝劣敗、自然淘汰などの「強者は生き残り、弱者は死ぬ」と言う原理ではなかったと言うことだった。ダーウィンは私たちが考えているように、それほど殺伐とした人ではなかった。ダーウィンが進化論で主張した核心は、『適者生存』である。「強者は生き残り、弱者は死ぬ」のではなく「適切なものが生き残る」ということである。生物学的に、歴史的に強者が消えた場合は無数に多い。最も強かった恐竜が絶滅するほどの状況であればこの世の中のすべての生命体が消えていなければならなかったが、弱くても適切な生物は生き残ったことで今の私たちにまで続いている。
 
二つ目の批判は、ハーバート・スペンサーが言っている自然と社会はだんだん成長すると言う目的に向かって歴史を一つの方向に作ってしまった。それによって強者(エリート)と弱者を区分することが出来るようになったのだが、生物学的環境の変化は偶発的であるため生物学的進化では規則や方向がない。よって強者と弱者の区分もない。そのような意味でレビストロース(Claude Lévi-Strauss)も「悲しき熱帯」でブラジルの原子民族を見つめて自身が相対的に文化的優越性を主張する西洋の視線を痛烈に批判したのである。
 
しかし、レビストロースのような人がどんなに痛烈に批判しても私たちの周りにはいまだにエリートが私たちを引っ張って行くのが当然であると言う考えが蔓延っている。一言で私たちは反射的に重要なことは優れた人、すなわちエリートがしなければならないと考える。反対に、エリートが世の中を引っ張って行くことの何が問題なのかと聞くこともあるだろう。エリートが優れた能力で私たちの世の中を引っ張って行ってくれれば、それが良いのではないだろうか?複雑なことを考えなくても良いわけだから、それほど悪くないような気もする。そして実際に私たちはスタンレー・ミルグラム(Stanley Milgram)の「権威に対する服従」実験でも見せてくれたように実際にそのように行動している。しかし民主主義の主権者としてそのような考えと行動はとても危険である。私が平等な位置に存在していない状態では自立も民主主義も不可能である。強者(エリート)につき従うものは自身が強者になるのではない。永遠に強者の奴隷になるのである。自立した人は絶対に自身の意見を他人に委任することはない。
 
 
 

Ⅲ.なぜ人々は不平等を受け入れるのか?-イデオロギー

 
-世の中は不平等なものであると主張する人々の考えと論理をある程度認めるとしても私たちはそれでも「人間は平等である」と言って生きる。しかし私たちは私たちの周辺の不平等に大きく不便を感じることなく受け入れながら生きる。私は今所沢店の横にある事務所で業務時間に楽な姿勢でコーヒーを飲み、音楽を聴きながらこの文章を書いている。おそらく業務時間が終わったらどこかにお酒を飲みに行くだろう。しかし所沢店のスタッフたちは業務時間には一日中一生懸命会社の業務をして家に帰って行き、眠くて疲れた体を引きずりながら自身の時間に報告書を書く。公平だろうか?何か不公平ではないだろうか?しかし給料は私がより多くもらう。何かがより不公平に見える。もちろん一般的に言える言い訳がないわけではないが、ここでそのような話をしたいとは思わない。今したい話は。「私たちはこのような不平等な状況を特別に疑うことなくなぜそのまま受け入れているのだろうか?」ということだ。
 
なぜだか殺伐とした雰囲気になったので、もう一度殺伐とした人物を召喚させてみよう。まさにカール・マルクスである。マルクスは私たちが不平等を受け入れる理由は支配階級が自身の支配力を維持するために実際の世の中を歪曲させる虚偽意識、つまり「イデオロギー」を私たちに強要しているためであると言う。Oh my god! 「イデオロギー」とはこれまた何だろうか?イデオロギーの意味を知るためにマルクスが「ドイツ・イデオロギー」と言う本で説明したイデオロギーの定義に触れてみることにしよう。この本ではこのように表現する。
 
『イデオロギーはカメラオブスクラである』
 
これはどういうことかと言うと、カメラオブスクラは初期のカメラの形として物事をそのまま映してくれるが上下そして左右が反対に見える。そのためイデオロギーと言う精神現象は現実を反映するが現実をそのまま反映するのではなく、権力者が自身が支配しやすいように歪曲された意識、すなわち虚偽意識と言うことである。
 
実際の状況で考えてみるなら、もともと人間が労働を通して価値を生産しそのようにして作られたものが交換されるのが現実である。一言で根本的に重要なものは労働であり、その労働の価値を人間と人間が交換する関係である。しかし私たちが生きていく実際の世界では人と人の関係ではなく商品と商品が結んでいる関係であると考えている。さらに進むとその商品を求めることが出来るお金とお金の関係であると考えられる。結局、労働>商品>お金の実際の現実を歪曲して、お金>商品>労働であると考えるようにする論理である『イデオロギー』が私たちに埋め込まれているために私たちは不平等を受け入れると言うことである。
 
このようなイデオロギーはほとんどが形而上学的な哲学や宗教などで覆われている。例えば『神は私たちに各自が生きる中でしなければならないことを決めてくださった。』というようなものだ。なぜか私が何か、価値ある人間になったような気がしていい言葉のようでもある。だから私たちは疑うことなくこの言葉を受け入れる。しかしマルクスの立場で見るならばこの言葉の内面には階級の不平等を合理化する論理が隠れている。『あなたが労働者であることは神が決めてくださったことである。不満を持たずに一生懸命働きなさい。』と言った意味である。
 
よってマルクスは、『知らなければならない。』と言う。この世の中の数多くの不正義と不平等そして不合理を覆っているイデオロギーのトリックについて私たちが知らなければならないと言うことだ。それだけでも知ったら、私たちは腹を立てざるを得ないし、行動するようになると言うことだ。だから韓国で80年代に大学を中心に「意識化」と言う名でこのようなイデオロギーの問題点を互いに分かち合い行動をしようとするものすごい社会的運動があった。しかし今の時点で既成世代になった彼ら、イデオロギーのトリックを知っている彼らは今、イデオロギーを擁護する人たちになってしまった。彼らは確かに知っているのだが行動しないのである。
 
なぜそうなのか?アントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci)と言う人が考えるには、現実の問題は「イデオロギー」というトリックだけを知っていれば終わるような簡単な論理の水準ではないと言いながら、「ヘゲモニー」と言う概念をもって出てくる。またイライラするが、イデオロギーと同じようにヘゲモニーも知っておけば優れたふりをすることが出来る単語の一つであるから知っておこう。グラムシが言うのは、イデオロギーはトリックではなくヘゲモニーという形態で私たちの意識に内面化されていると言うことである。ここで「ヘゲモニー」と言うのは「支配階級が被支配階級による抑圧ではなく自発的に同意を通して支配を達成するときに使用される知的、道徳的指導力」のことを言うのだが私たちが生きていくすべての意識と機関に浸透している。例えば、家族、学校、会社、社会、哲学、社会科学、常識などである。所沢店を見るのであれば、私がかっこいいトリックをもって所沢店のスタッフをだまし不平等を維持しているのではなく、私たちの不平等な関係を私とスタッフが自発的にしきりに同意していると言うことである。イデオロギーはトリックではなく、幼いころから埋め込まれている私たちがお互いに合意によって維持してきた支配様式であるため、イデオロギーのトリックを聞いても簡単に変えられはしないのである。だからグラムシはこのようなイデオロギーを壊すためには短期間の革命ではなくとても長い時間の闘争で可能であると考える。
 
しかしルイ・アルチュセール(Louis Pierre Althusser)と言う人はここで一歩前に出る。イデオロギーは「無意識」であるためどれほど意識的に学んでも私たちはイデオロギーを抜け出すことは出来ないのである。しかし現代の最高人気哲学者の中の一人であるスラヴォイ・ジジェク(SlavojŽižek)と言う人はもっと憂鬱な見方をする。人々はイデオロギーのトリックも知っていて騙されていると言うことも皆知っている。しかしこのような真実を「嘲笑い」ながら、ただ生きていくと言うのである。なぜそうなのか?トラウマのせいであると言う。歴史的には全体主義、社会主義などの理想を追求してきたし、実際に私たちが経験する人生にも個人たちは多くの新しい試みをするがすべての結果は惨憺たるものだった。これからは今が不合理な世の中であると言うことを知っているけれど、さらに苦痛を受けたくないために嘲笑うのである。そのような冷笑の社会ではすべての価値は意味が無く唯一の真理である「価格」を信ずるようになる。このようになると現実は不平等であるけれど最小限お金の奴隷としてお金の前では皆が平等になると考えるようになるためである。
 
グラムシからジジェクの話までを聞いてみると憂鬱になってきて文章を書くのに嫌気がさしてくる。イデオロギーのトリックを理解するのも難しいのに、それだけではだめだと言うのか?しかし放棄することは出来ない。不平等なのであれば平等もあると言うことだ。大変かもしれないが、そこに向かって進んでいくしかないのではないだろうか?知っているだけでは私たちを行動するようにはできないが、いったん知らなければならない。そして行動しながら悩むのはどうだろうか?ジジェクのメッセージも結局はイデオロギーの作動方法は意識ではなく行為にあると言うことである。
 
 
 

Ⅳ.なぜ人々は不平等を受け入れるのか?-恐怖と規律

 
-前項で、なぜ私たちが不平等を受け入れるのかに対してイデオロギーと言う権力者の洗練された精神的な方法についてみてきた。しかし今度はより直接的で身体的な方法として不平等を私たちが受け入れる技術に対して調べてみよう。
 
まずは「恐怖」である。長く説明しなくても刺さるように感じとれるだろう。店舗で絶対的な権力者である私が大声を上げて恐ろしい雰囲気を作ってそのような雰囲気が日常になれば私たちは不平等を受け入れるしかない。このような恐怖と権力の関係を西洋で本格的に主張した人はニッコロ・マキャヴェッリ(Niccolò Machiavelli)である。「君主論」と言う本で有名な人であるがおそらくこの本は読んだ人がいるだろうと思われるほどに大衆的に人気もあった。読んでない人のためにマキャヴェッリが言ったカッコイイ言葉をいくつか残しておこう。
 
-統治者が民衆を引っ張りたいのであれば、尊重の対象になるか恐怖の対象になりなさい。
 
-武装した預言者は誰もが勝利し、武装していない預言者は誰もが廃滅する。なぜなら民衆はひどく気まぐれなので、言葉によってついてこない場合は力によってついてこさせる必要があるためである。
 
-愛を受けると言うよりは恐れを呼び起こす方がより安全である。人間は恐れを呼び起こす者よりも愛を授ける者を害するときの方がためらいを知らないからである。
 
-人間たちとは多情に接してあげるかもしくは踏みつけて押しつぶしてしまわなければいけない。人間は小さな被害を受けるときはどのようにしてでも仕返ししようとするが、大きな被害を受けた時は敢えて仕返ししようと言う気も起こせないためである。
 
どうだろうか?かっこよくないだろうか?中世にこのような言葉をむやみに発言したとで「悪魔の本」と言う名も得ることになった。マキャヴェッリが言った権力の本性は真理、倫理、道徳とは関係なく暴力で武装して直接的な暴力を使用しないときも暴力を基盤として人に命令する力であると言うことだ。
 
しかし哲学者トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes)は、マキャヴェッリの説明をより体系的にして主張する。過去のアリストテレスから秩序と言うものは秩序に対する人々の共有された感覚から出てくると考えられたが、ホッブスが見た時にはそのようなものは形而上学的で証明不可能なものであるだけである。だから『政治は恐怖を創出しなければならない。』と言う言葉を主張しながら恐怖で秩序を作らなければならないと主張した。よってホッブスが見た時に他人が私を害するかもしれないと言う恐怖も合理的な感情である。やはり「利己心」を歴史の中心に登場させた人らしい意見である。何にしても、このような恐怖を通して私たちは不平等を自然に受け入れるのである。
 
しかし近代が過ぎて現代に入り、直接的な「恐怖」をそのまま不平等のために使用するのが、だんだんに困難になってきている。以前はひどい罪を犯した人を殺すときに、多くの人に恐怖を与えるために人々が見えるところで首を切る刑罰もあったが、今はそのような光景を見ることは出来ない。そのようにしたら人間の基本的な権利、人権などを訴えながら権力者を苦しめることになるからだ。だから現代には罪を犯しても以前のように「目には目、歯には歯」のようにその罪に対する仕返しに焦点を当てるのではなく、今は今後は罪を再び侵さないように矯正することが目的に変わった。また、体に苦痛を与える刑罰よりは、自由を制限する刑罰に変わった。これは人権的に良くなったわけではあるが、権力の側面で見るのであればより複雑で細かい仕組みに変わったのである。
 
まさに「恐怖」の次のバージョンであるミシェル・フーコー(Michel Foucault)が「監視と処罰」で言った「規律」と言う方法に変わったのである。「規律」は破壊するよりは人の人生を鼓舞する方法で、権力を作動させる。規律はもっとも効率的に人々が能力を発揮して行為することが出来るようにする技術を要求するのだが、結果的にルールと些細なことに執着させるようになる。燃えるごみを捨てる日に缶を捨てると隣の家の人は怒りがたまり、カメラマンが約束した撮影時間を超えて新しい試みをすると腹が立つのである。このような作動原理が、代表的に修道院、軍隊、学校で行われる。もちろん規律がはじめて登場したときから権力者の便利な支配原理で始まったのではない。修道院は宗教的な目的を達成するために、軍隊では勝利のために、学校では上手く教えるために始まった。しかしここで人々の行動を見て権力者は人の動作、時間を規律に合うようにすれば組織に有用な人間が作られることを知ることになった。だからこのような「規律」を全社会的に拡張したわけで、代表的なのが監獄、病院、会社などである。このような「規律」は権力者にとって「恐怖」よりもっと便利である。恐怖は継続して恐怖を確認させてあげなければならないが、規律は不平等を与えられる人が自ら自身の内面に規律を内面化して強化させるためである。
 
似たような脈絡で自立して主体的に選択したのではなく、何の疑いや悩むことなく社会が望む資格証や学閥を積むために一生懸命生きていく人は現代の権力者が最も喜ぶ「規律を完全に内面化させた人」である。彼らが一生懸命生きていく理由は権力者が権力者の支配のために作った規律を怖くて従うのではなく、自身のために従っているためである。
 
なんだかルールを守れば無条件不平等になると言う論理に聞こえるかもしれないが、全てのルールを無視しなければならないと言う意味ではない。私たちが言う規則とここで言う規律の意味が少し異なる。しかしその差とは関係なく、私たちがルールに埋没してそれを守って維持するところにだけ関心が集中するようになるのなら、私が私の不平等を作る原因になることもあり得ると言うことだ。
 
 
 

Ⅴ.不平等から抜け出す道

 
-私たちの自立を邪魔する重要な要素である不平等を私たちがどのようにして強要され、また受け入れているのかについていくつか考えてみた。私たちに不平等を合理的に要求する主張として社会が維持されるために仕方なく不平等であらざるを得ない主張もあったし、自身が権力を持っていることを優れた能力のためであると言う主張もあった。そしてそのような不平等を権力者たちが宗教、哲学、文化、常識の方法を動員して私たちに不平等を意識もしくは無意識的に洗脳されていると言うことも分かったし、より直接的な方法として恐怖と規律が私たちの心の中に不平等を内面化させていると言うことも分かった。
 
事実私たちが不平等を受け入れて自らを自立できなくさせる原因はこれよりももっとたくさんあるだろう。会社の中の重要な決定で極端な対立を避けるために自身が持っている直接的な権利を他人に委任することで不平等になる場合もあるし、ただあれもこれもするのが面倒で不平等に向かう場合などもあるのだろう。
 
しかしまずここまで私たちが分かったいくつかの原因を基準にして、私たちの自立を邪魔する障害物を除去する方法は何があるだろうか?先に書いた障害物たちを除去する方法を単純に羅列するのであれば、『私たちは不平等を強要されないようにするために、敗北意識を捨てなければならず、強者またはエリートではなく私を含む民衆の力を信じなければならず、イデオロギーまたは規律によってコントロールされないために学習しそれを現実の中で実践しなければならない。』と言った感じになるのだが、まず文章だけ見ると体裁が悪い。先に書いた自立の定義もとても長いので、ずっと気になっていた。だから上記の文章を短くして言い直すなら、
 
『学習と実践』である。
 
落ち着いてもらいたい。このように長たらしく難しい言葉を書いておきながら、結果的に毎日のように使っている言葉が突然また出てきたことに対して自分も腹が立つ。しかし理解してもらいたい。この文章の目的は今とは全く異なる方向性の提示ではない。私たちが今まで続けて追求してきた価値がどのような理論的基盤の上に立っているのかを明らかにすることが目的である。そのため私たちが今まで話して来た目的と価値そして方法から180度異なった話が出てくるはずがない。ここで突然私たちが自立するためには利己心とお金が最も重要であると言う結論が出てくるのもおかしな話ではないか?
 
それでも「学習と実践」という結論でこの文章を終えるのであれば、この文章をここまで読んだ人々の怒りを抑えることが出来ないため、次の章ではもう少し具体的にどのような理論的方法が「学習と実践」を引っ張り出すことが出来、それがなぜ自立に繋がっていくのかを明らかにして見ることにする。
 
 
 
 
 
本論
 

3部:自立のための方法

 

Ⅰ.自立のための方法

 
-私たちは1部で私たちが定義した自立とは、「自身の観点で世の中を見つめ、そのような観点を他人にも同等に認めてあげ、そのような観点の差の対立から新しい観点を作っていく態度」であると定義づけ、2部ではそのような自立をできなくさせる社会、文化的な障害物たちを除去する方法として「学習と実践」と言う結論に至った。では3部ではこのような「学習と実践」をするために具体的にどのような技術が必要であるのかという論議を進めていくことにしよう。1部と2部では結論が後ろにある方法で文章を書いたためもどかしさを感じたかもしれない。だからこの3部では結論を先に書くことにしようと思う。では私たちを自立に導いてくれる具体的で決定的な方法は何であるのか!!!
 
まさしく『参与』である。
 
「参与」・・・とても良い言葉だ。しかし、果たしてこの「参与」をまた私たちはどのように受け入れなければならないのだろうか?私たちは常に労働行為に参与していて、学習行為にも参与していて、会社の色々な会議に参与していることによって経営にも参与している。だとしたら私たちは今も自立に向かうための『参与』を完璧に行っていると言うことになるが、何か虚しさを感じるのが事実である。では私たちが自立を定義したように、私たちが望む『参与』もまた定義づけてみることにしよう。
 
歴史的に「参与」をすることが出来る権利の発展は「市民権」の発展と共にする。イギリスの社会理論がT.H.マーシャル(Thomas Humphrey Marshall)と言う人の市民権発展史を参考に考えてみるなら、
 
18世紀は基本的な「市民的権利」を最初に主張していた時期であったのだが、言い換えるなら自由財産権、体に対する自由など市民革命で主張していたそのような権利を得て行った時期であった。
 
そして19世紀になり、「政治的な権利」としての市民権の概念が生じた。政治的権利と言うのは参政権、普通選挙権、集会の自由などを言う。アメリカで今はあまりにも当然な黒人の選挙権は1870年に認められ、女性選挙権も1920年に至って初めて認められた。
 
そして20世紀になって、「社会的権利」としての市民権の概念が強調される。社会的権利とは、教育、保健、医療、年金さらには雇用保険、失業年金などの方法で雇用までも権利であると言う考えが広まってきた。
 
一言で「市民権」は「参与」をすることが出来る権利がだんだんに拡張されてきた歴史であった。韓国や日本を見ると、いまだに社会的権利としての市民権が確立されたようではあるが、それでもこのような部分を追求している段階程度のように見える。そのため「自由的平等論」が主張する意味の福祉国家モデルが多く取り上げられ論じられているのである。
 
しかしここで一つ考えてみることがある。このように権利が拡張されてきたことは、それが必然的にそうでなければならなかったため自然に特別な努力なくこのように拡張されてきたのだろうか?もちろん今の私たちはこのようにほとんどの市民権を生まれた時から自然に受けてきているためこれはもともと絶対的な権利として認識することもできるが、私たちが受けている市民的権利は、『参与』を単純に「権利」としてだけ考えられるものなのだろうか?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Ⅱ.参与は手段であるか?目的であるか?

 
A.参与は手段であるか?
 
-先に書いた「自由至上主義」と「自由的平等論」を含む自由主義者(個人主義)の立場で見るなら、
 
参与は権利』である。
 
権利であるため、参与と言うものはしてもいいししなくてもいいことになる。だから「参与」と言うものは政治的に私の労働、余暇、人生において私がもっと幸せになるための条件を作る「手段」になる。それで重要なのは特定の思想や主張が良いと言う立場ではなく、各自の人が「参与」をすることが出来る権利があればよいと言うことである。もっと正確に言うなら権利だけがなければいけない。
 
他人の人生や私の人生にあまり関心がなく世の中の不合理にも全く反応しない人の人生も全く問題がないということになる。アフリカの貧民を救済するボランティアの大変な状況が出てくる特集番組を見ながら涙を流し共感して寄付に参与するなり、その放送時間にもともと放送されることになっていたドラマが放送されないことに腹が立って放送局に抗議の電話をする参与をするなり、それはその人の自由である。彼に必要なことは寄付したいときに寄付することが出来る権利、そして放送局に抗議したいときに抗議することが出来る権利だけがあればよい。何だか普遍的な人権を追求して人類愛が溢れる私たちのような人たちの立場で見るのであれば変なように聞こえるかもしれないけれど、自由主義者の観点から見ればそのように行動することが全く間違ったことではない。何故なら自由主義哲学の背景には人々の人生の方法にはどのような優劣もないと言う考えをしているためである。世の中が不合理であると言って声を上げて主張してその不合理を除去するために実践する人とただ今の状況をそれなりに受け入れて生きていく人の間には優劣はなく、皆が自分だけの幸せを追求する権利はあると考えるためである。やはりこのようなカッコイイ論理を聞くたびに私の個人主義的な考え方と、さらには心の隅にある私の利己的な気持ちが拍手を送っている。
 
B.参与は目的であるか?
 
-しかし反対であると主張する人もいる。『参与』に対して反対の意見を提示する人は「参与」とはそれ自体が『目的』でありそれ自体として内在的な価値を持っているために異なるある補償のための「手段」ではなく「参与」それ自体が補償であると言うことである。もう一度言うなら、「参与」と言うものは単純に自身に必要であれば行い、必要でなければ行うわなくても良い「手段」ではなく人間が社会で生きていく中で自身の存在を証明するもっとも次元の高い行為であるため人間であればしないわけにはいかない行為であると言うことである。
 
例えば私の同僚が会社で不当な待遇を受けると仮定してみよう。簡単に言って同僚が上司にいじめられていると考えてみよう。参与が権利である人はいじめを受けている同僚を助けてあげることが自身にどのような利益になるかについて考えるだろう。そして利益になるのであれば助け、そうでなければ助けないだろう。しかし参与自体が目的である人は同僚に対するいじめと言う行為が不当であるため、いじめをなくす行動に参与するだろう。そしてそのように参与すること自体を通して自身を含め、私たちが生きていることを確認するのである。
 
よって、「参与」が「目的」であると考える人々が見た時に「参与」と言うことを各個人の私的理解を満たすための「手段」として見るのであれば民主主義的原理と衝突する部分が生じる。まさに、「無賃乗車」の問題が生じうる。例えば、ある人は原子力発電所の問題点に対して社会的に不利益を甘受しながらもデモもして色々な行動をすることもあり得る。反対に自身の自由意志で原子力発電の問題に対して知っているけれど何もしない人もいることもあり得る。だから結果的に原子力発電を止めることになり、社会的に原子力発電の問題点が解消されたと考えてみよう。前者の一生懸命行動した人は色々と大変な思いをし被害を受けたけれど何も行動しなかった人にも恩恵は同じようにまわっていく。
 
事実、生きてみればこのようなことはよくあるため、少し極端な例をあげてみよう。先に例をあげた状況を詳しく見ると、主流経済学が言っているように皆が自身の利己心を発揮するのが合理的である。言い換えるなら、私は利己的で他人は利他的であることが最高の状況である。しかし皆がこのように考えているのであれば戦争のように大きな事件が発生した時に誰が立ち上がろうとするだろうか?「参与」が権利だと言う立場で見るのであれば、自身に不利益が生じる可能性がある状況で行動する人は馬鹿であるとみることが出来る。このように参与を権利として考えるなら、私たち皆が利己的な考えだけをする人たちになることを避けることも批判することもできない。このような利己的な人たちの集まりがライフスタジオであれば私たちは共にする理由自体がなくなってしまう。
 
繰り返すが、私たちが追求する「自立」は無人島に行く自立ではない。そのため私の立場でライフスタジオで追求する『参与』に対してここでもう一度宣言しておく。
 
ライフスタジオで、
『参与は手段ではなく目的であり、参与は権利ではなく義務である。』
 
4大原則解説に出てくる『知らないことは犯罪である』も同じ脈絡での強力なメッセージである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Ⅲ.真正なる参与とは?

 
-かっこいい宣言までは良かったが、このような宣言をした後にも気になる点はいまだに残っている。参与が目的であり義務であることは分かったのだが、それがどのような意味なのだろうか?会社でするすべての行為に参与しろと言う意味なのか?果たしてどのように参与しなければならないのか?
 
「参与」というのは結局政治的な行為である。政治的な行為であると言うとなぜか黒い正装を着て金色のバッチをつけて深刻な表情で投票をする国会議員が思いつくこともあれば、タキシードを着て海外の首脳代表と合意書にサインをする大統領や総理が思いつくこともある。しかし私たちが日常的に行動する政治的行為はこのようなものではない。スペインとインドの中でどこに社会旅行に行くかあみだくじをするのも、シーズンスケジュールのアップロードを3カ月制限にするのか6カ月制限にするのかを討論や多数決で決定する行為も、お昼ご飯に何を食べるか悩んだ挙句に妊婦の意見に優先権を与えて妊婦が食べたいとんかつを食べることに決定すると言ったような行為もすべて政治的行為である。私たちは政治的行為を通して日常の中で「参与」をする。このような私たちの生活は政治から切り離すことは出来ず政治の中でだけ参与が可能であるため、1部で政治の原理として政治哲学を例に挙げて説明したのである。だとしたら今度は政治的参与の方法に焦点を当てて、どのようにして「参与」することが私たちを自立に導いてくれるのかについて考えてみよう。
 
A.投票(多数決)
-まず、国会議員の選挙に投票をするにしても、シーズンスケジュールを3または6カ月にする問題に投票するにしても、忘年会の場でライフスタジオで一生懸命働いた社員を選ぶ投票をしても、このすべての行為は参与であると言うことが出来る。しかしこれだけでは目的としての参与になるには不足している。投票と言う行為は必要な条件の中の一つであることはあり得るが十分な条件ではない。簡単に言って参与の形態は作られているがまだ内容が満たされてはいないと言うことだ。
 
もちろん投票と言う行為、特に多数決は、先に論じた「功利主義」でも話したが決定の状況である時にものすごい力を発揮する。事実この方法以外に選ぶことができる方法が一般的にはない場合も多い。だから私の意見をもって投票して、もしも負けるのであれば素直に敗北を認めるのがかっこいい姿であるように見えたりもする。しかし多数決がまさに民主主義または真正なる参与であると考えるのであれば錯覚である。投票または多数決が私たちに分からせてくれるものは正義ではない。ただ、算術的な統計と多数の意見が何であるのかということを知らせてくれるものである。多数決が正義なのであれば少数者の意見は永遠に受け入れられることはないだろう。一言で、まだアメリカで黒人は以前のように奴隷どのような差別を受けているだろうし、オバマが大統領になると言うことも想像不可能であっただろう。もう一度繰り返すが、投票に参与する行為自体だけでは私たちが言う「参与」であるといは言うことが出来ない。
 
B.間接参与(代議民主主義)
-では、投票と関連した方法である代表または代理人による間接参与はどうだろうか?
事実、私たちが実際の生活で多くの部分は間接参与でなされている。一言で大統領、国会議員、地方議員などの制度圏の政治だけでなく、ライフスタジオの中でも明示的もしくは暗黙的にほとんどの組織には代表がいる。これは私たちがこの政治制度に慣れていると言うことでもある。能力もあり親切な代表を選ぶのであれば、私たちは幸せになることが出来ると言う意識が私たちにはある。実際にもそのような部分が多い。会社の次元で大きな事業計画をするのに皆が集まって討論をしてみると結論にたどり着かずに全く異なる方向に流れていくこともある。歴史上最も民主的な憲法を持っていたヴァイマル共和国で、民主的だが結論はなく終わりなく討論だけをする人々を見てカール・シュミット(Carl Schmitt)は『彼らの討論は永遠なる対話である。』と皮肉ったわけで、このような状況は決定権が集中しなかった時により多く発生する。だから場合によっては専門家も必要であり、優れたエリート代表に権限を委任することもある。しかしこのような傾向が強くなると核心的な問題が生じる。
 
まさに自立を望んでいた私と言う主体は消えてしまうのである。私とあなたが共に集まってお互いの自立を助けてあげていた姿から優れた啓蒙君主を見つけ出し、彼に私の自立を委託する形になる可能性がある。私が自立するためには私の苦痛が必要である。苦痛なくしては参与もなく、苦痛なくしては自立もない。もう一度言うが、自立した人は絶対に自身の意見を他人に委任したりはしない。
 
C.直接参与
 
-もちろん投票または多数決が必要である。少数決はもっとおかしいのではないだろうか?もちろん「万丈一致」という完璧な決定制度があるが、だんだんに多様性と葛藤が多くなっている現代社会において万丈一致と言うのは実質的には一つの宣言に過ぎない。または万丈一致は使い方を間違うと、少数者の意見を心理的にもっと萎縮させる制度になることもあり得る。
 
また間接参与、すなわち代表による政治も多くの部分で必要である。「資本主義」以後の代案として「参与計画経済」と言うものに対して考える人たちも「職級」を循環させる労働者の極端な平等を主張したが「職級」それ自体の必要性に対しては認めている。
 
このように実質的に多数決または投票も必要であり、間接参与すなわち代表もまた必要であるが、私たちが自立するために今決定的に必要なものは、
 
『直接参与』である。
 
言い換えれば、政治的決定に参与することも重要であるが、「政治的決定に至る過程」に直接的に参与することが必ず必要である。もう一度言うが、ここで言う直接的な参与は投票のことを言っているのではない。最終的な投票に行く前に「争点に対して各自の観点を伝えるためにお互いに準備して談論を形成し対話して深く討議すること」であり、チョヒョングン教授の表現を借りるのであれば、「人々の声をお互いに聞かせるようにすること」これがまさに「直接参与」である。このような直接参与の中には私の意見が変わることもあり得れば、相手の意見が変わることもあり得て、二つの意見の間でもっと良い意見が出てくることもあり得る。極端に言うのであれば、投票または間接参与では勝者と敗者がいる。しかし直接参与つまり政治の過程に参与するということには「弁証法的統一の可能性」があるのである。
 
 
 
 
 
 
 
 

Ⅳ.直接参与のための二つの条件

 
話がどうにか流れて「直接参与」にまでたどり着いた。良くは分からないがこの文章の流れを簡単に整理するなら、政治的な直接参与を上手くすればどうにかなって自立することが出来ると主張しているようである。だとしたら最後の理論的模型として直接参与するためにはどのような条件が必要なのかについて考えてみることにしよう。
 
私たちは事実、先に話したような自身の意見を準備して談論を形成し対話して討論などをしながら「直接参与」をするのが良いと言うことは分かっているのだが実際にはとても大変であるし疲れることなのである。
 
例えば、私のように何かを言い張るのを好む人と対話するとき、権力を先立たせて自身の意見を強圧的に主張しながら相手の意見を主導しようとする人と対話するとき、もしくはまったく全体的な流れも知らずに自身がしたいことだけを話す人と対話をするとき、または討論をたくさんしたのに実際の私の生活には何の変化もないときなどの状況で私たちは弁証法が何なのかと腹立たせられるのが事実である。
 
だから「直接参与」をするときこのような消耗的な状況を避けるために、ある具体的な条件を見つける必要がある。そして私たちが見つけ出した二つの具体的な条件は、「市民的徳性」の涵養と「政治的効力感」の増大をあげることができる。難しい言葉を使ったが、理論と言うのがほとんどそうであるように内容を現実的に分析して細かく調べてみれば難しい概念ではない。具体的に調べてみることにしよう。
 
A.「市民的徳性」の涵養
 
-結局「直接参与」をするために私たちは自身の意見を作って学習して討論を準備しなければならないのだが、このとき必要な「市民的徳性」の涵養を簡単に表現するのであればこのようなこと(自身の意見をもって学習し討論を準備)をうまくするために技術的能力を高めなければならないと言うことである。討論をうまくすることも徳性であり能力である。
 
もう一度言うが、私たちは自立した状態であるためには自身の観点を表現できなければいけない。しかしうまく表現しなければいけない。適当に自身だけが知っている表現で話をして相手が自身の意見を受け入れてくれないと腹を立ててはいけないと言うことである。また他人の意見を聞いて共感した上で理解することは理解しなければならないが、自身の意見をもっと強力に主張しなければならないときにはそのようにすることができる能力が必要である。ライフスタジオらしくいうのであれば、適切に「ミサイル」を投げることも必要であり、必要なときはパトリオットミサイルで相手のミサイルを適切に「防御」することも出来なければならず、相手が苦痛を感じているときには適切な「絆創膏」を貼ってあげることもできなければならない。
 
そのようにしてこのような観点の表現の前に私の観点を作るときに、もっと根本的に「市民的徳性」は重要である。例えば、客単価を高めるために東京23区に住んでいる顧客だけの予約を受けようと言う意見をもってものすごい努力と学習をした後に、経営に直接参与して埼玉の顧客は撮影することが出来ない意見を完成させたとしよう。今まで話してきた脈絡の直接参与とは何か違和感を覚える。おそらくこのような直接参与を私たちが追求する直接参与として考えるのではないと言うことだ。私たちが追求するのは個人的な観点を無視してはいけないが、同時に社会的な視線を考慮する。「哲学入門」に出てくる難しい言葉を引用するのであれば特殊だけではなく不変と特殊が統一されなければならない。このように不変と特殊が統一された意見を持つようになる能力または「市民的徳性」を養うことによって可能である。
 
整理するのであれば、不変と特殊が統一された意見を持つこと、もっと言えばそれを正確に効果的に表現して伝える能力を持つことがまさに「市民的徳性」の涵養である。
 
それではこのような「市民的徳性」を高める方法はどのようなものがあるだろうか?
私たちがいつも強調する『学習』である。
 
そのため私たちは学習をしている。学習するための方法と理論に対してはライフスタジオ「白書」の「教育」の部分や「4大原則解説」の「読み書き討論を第一優先に」などを参考にしていただけたらと思う。
 
事実、私に誰かが「学習」の本質が何であるのかと聞くのであれば、その質問に答える資格はない。しかしもっと重要なことは、私たちが追求する「学習」も「自立」に似ていて固定されたある状態であると言うよりは「態度」に近いと考える。そのため、『教えることは出来るが伝えることは出来ない』と言う、宮本武蔵の表現を借りるのであれば「学習に対する考えと方法は話すことは出来るが、学習それ自体を伝えることは出来ない。」
 
しかし一つ言えることは、学習に対する希望はある。昔、仏教の格言に『学ぶ準備が出来たら、師匠は現れるようになっている』と言う言葉があった。あなたに学習に対する意思があるのであれば、道は無条件生じるだろう。私たちの周りに私たちを助けたがっている師匠は星の数ほどに多くいる。ただ、私たちが見れていないだけなのである。
 
 
B.「政治的効力感」の増大
 
-とにかくこのような継続した学習と努力で「市民的徳性」が高められたとしても、私たちが自立と言う空を飛んでいくためにはもう一つの羽がより必要である。まさに、「政治的効力感」の増大である。
 
市民的徳性と同じように、政治的効力感も難しい概念ではない。簡単に言うのであれば、私が異なる人々と毎日討論して戦ってお酒を飲んでまた準備して学習してまた討論して戦ったのだが私の実際の生活に何の変化もないのであれば力が抜けてしまう。普通の変態でなければこのような状況を長く耐えることが出来ないだろう。ここで必要なのが「政治的効力感」である。
 
簡単に言うのであれば、私たちの「政治的決定」が実際に効果を発揮させる状況になることがまさに政治的効力感が上がった状況である。そしてこのような政治的効力感を高めるためには制度的なシステムの支援が絶対的に必要である。システム的に私たちの政治的決定が実際に私たちの人生を変化させなければならないと言うことである。直接参与をしているのに何の変化もなく「市民的徳性」だけが高まるのであればその参与はただの「スタディーグループ」に過ぎない。私が「直接参与」をするためには私がその参与の主体であると言うことをしきりに確認できる必要がある。
 
しかしすべての決定を「直接参与」として決定しなければならないと言うことではない。ただ、今私たちの条件に合わせて、漸進的に「直接参与」が可能になるように「政治的効力感」が増加する方法を悩み続け見つけなければならない。例えをあげるのであれば、とても簡単な方法として自由なサークルのような組織を会社で制度的に支援することもできるし、直接的に会社の経営には関係がないが間接的にお互いに影響が及ばざるを得ない福祉のような部分から効力感を高めることもできるし、わざと経営の一定の部分を制度的に「フォーラム」やその他の集まりまたは全体が自由に参与することが出来る部分に委任する方法もあり得る。このような方法の追求は「市民的徳性」を高めることが出来る学習の方法に合わせて必須なものとして悩み、適用させなければならない。
 
しかし、錯覚してはいけない部分は、私たちに政治的効力感が高いシステムが作られたと言うことだけで自動的に直接参与が増えるのではないと言うことである。以前、Bチームの失敗の要因の中の一つもここにあった。Bチームが初期に集中していた部分は、全体的な経営を「直接民主主義」という方法で「政治的効力感」を高めることに集中していた。そしてそのように「政治的効力感」が高められるのであれば、私たちの内部に隠れていた「市民的徳性」が自然に発揮されるだろうと言うのがBチームの主張であった。しかしもっと良い梯子を作っただけで、もっと多くの人々が突然梯子を上って木の上に上ると言うことではなかった。
 
どの木に上れば、自分が望んでいる果実があるのかを知ることである「市民的徳性」と、梯子を上手く上る能力である「市民的徳性」の追求が共に必要であった。
 
 
だから結論的に言うと、私たちが今の時点で自立するための人生の目的としての「直接参与」を高めるためには、
 
学習を通した「市民的徳性」の涵養のために『具体的学習の方法』が提示されなければならず、
同時に「政治的効力感」のための具体的な『制度的システム』の提示が私たちに必要である。
 
 
 
 
 
 
 

結論

 

Ⅰ.「組織した組織」と「組織しない組織」の調和

 
-現代の社会はだんだん複雑性が増えてきている。100年前までだけを見ても、おそらく多くの人々が生まれて一つの村の人々と関係を結び、その中で作られたものでほとんどの生活を送って生きていた。しかし今はそのような生活は不可能である。無理にそのような生き方をしようとしたら、ものすごいお金と努力を注がなければならないだろう。このように全世界が一つの有機体として連結してそれによって複雑性が増加し、一つの問題が全体の問題に拡散される時代に私たちはどのように生きていかなければならないのだろうか?
 
このような時代的状況では先だってハーバート・スペンサー(Herbert Spencer)が主張したように、能力が優れた「エリート」だけにこのような複雑な世の中が上手くいくように任せる方法がある。しかしそのような方法がだんだんに難しくなっていると言うことが証明されている。道徳的に正しくないために、または政治的に悪いために、もしくは経済的に非効率的であるためにエリートが私たちの社会をコントロールしてはいけないと言うところを乗り越えて、現実的な理由としてもエリートの支配は難しくなっている。まさに、一部の人もしくは集団が全体をコントロールするにはあまりにも複雑になっているためである。ソ連の社会主義計画経済の失敗原因を色々と分析するが、その中の一つはソ連の経済を計画統制する「ゴスプラン(ソ連国家計画委員会)」で1980年代半ばまでにおいても初歩的な水準での生産管理が可能な商品の種類の数が2000個でしかなかったと言う。今、私の目の前にある商品だけを見ても2000個を超える。このように単位が大きくなり、異なる単位との関係性がだんだん高まっている現代の社会では中央またはエリートの政治では限界がある。
 
だとしたら、代案として「市場」を考えてみることが出来る。「自由至上主義」または「新自由主義」者が主張するように、私たちのすべての状況を市場に任せておくのであれば、このように複雑になっていく状況のバランスは「市場」で「価格」と言う変数によってすべてがうまく回っていくだろうと言うことだ。しかし利己心と言う原理で動かされる「資本主義の市場」はバランスではなく深刻な不平等と不安を私たちに抱かせてくれた。基本的に社会のバランスよりは個人の利己心を追求する権利にだけ焦点がある原理事態にこのような結果は内在していたことなのかもしれない。歴史的にこのような不均衡の結果として「自由主義」者の論理では説明することが出来ない世界的な大恐慌が繰り返されている。そして私たちは本能的に今の「新自由主義」的社会生活が私を他人との関係の中で完全に孤立させていて、このように「孤立した私」「失われた私」を探そうとさまよっている。私たちはこれを「憂鬱」と呼ぶ。
 
結局、私たちが選ぶ方法はエリートによって集中された権力でもなく、個人的に完全に破片化された個人主義でもなく、「ネットワーク」である。社会学者ジェレミーリフキン(Jeremy Rifkin)が言ったように現代のような
『速度、複雑性、多様性を収容することが出来る唯一の企業モデルはネットワークだけである。』
しかしこのようなネットワークで作られた組織を単純に以前のピラミッド型組織が適切なバランスで上手く組織されているのであると考えるのは間違いである。私たちはネットワーク組織が良いと思いながらも、ピラミッド組織図のような上から下に見た図をネットワークであると錯覚することもある。ここで言うネットワークは白書に出てくる「ジェンキス」型モデルでもあり、「マトリックス」組織でもある。このようなネットワークモデルは組織の必要によって組織的に作られた組織(組織した組織)だけでなく組織的に作られていない組織(組織しない組織)を含んだ多様な組織が自然に生成、維持、消滅が可能なシステムにおいて可能である。
 
私たちはある明示的な目的を追求するために、「組織した組織」に慣れている。当然、私たちはWikipediaではないために、「組織した組織」モデルは今も必要であり未来にもずっと組織の中心的モデルになるだろう。しかしこのようなモデルにだけ執着しているのであれば、「組織した組織」だけを残してこのような組織は必然的に目的に従ってピラミッド構造のように垂直化される。そのような組織では自然な「ネットワーク」も自発性による「直接参与」もだんだん難しくなる。よって私たちが追求する方法としての多様性と私たちの方向性を侵害しないのであれば、方向性と関係ない異なる方法を認める「組織しない組織」が今の時点で私たちにはもっと必要である。過去の「前衛」が社会を引っ張り「大衆」はそれに従う組織の思考構造では、ネットワークのモデルを想像するのは難しい。ネットワークの構造の中では、混同と無秩序によって不安に感じたとしても活気と気力を持つことがもっと重要である。今までの宣言、統一に対する強迫からある程度抜け出す必要がある。このような状況で実質的に必要な「組織した組織」と私たちに活力を作ってくれる「組織しない組織」たちがバランスを成すネットワークモデルがライフスタジオで円滑に作動するためには何が必要だろうか?まさに、
 
『市民的徳性』の涵養と『政治的効力感』の増大である。
 
繰り返すと、私たちが「自立した人々の経済共同体」になって「これから私たちはシーズン2である」と宣言するために、私たちがこれから具体的に悩むべき実質的な方法を悩まなければならない部分として、
 
私たちの方向性を明確にして、その方向性を成すための能力としての
「市民的徳性」を育てるために『具体的な学習方法を作らなければならず、
このような「市民的徳性」が多様なネットワークの中で表出され「政治的効力感」を高める
具体的な『制度的なシステム』を作ると言う部分での悩みが必要である。
 
 
 

Ⅱ.最後に

 
-シーズン1、シーズン2の話から始まって、長い話をすることになった。事実何百ページを基本に書いているライフスタジオの雰囲気を思えば、これくらいの文章は長い話だと言うには程遠いいだろうが、個人的に私が生きてくる中で書いた文章の中ではおそらく最も長い文章であったと思う。だから少しは乱雑であり、複雑な文章になったが、
 
この文章で私たちが共に考えてほしいと思う部分はまさに『自立』に対する部分である。
 
自立と言うものが何であり、私たちが自立できずに依存的な人生を生きてくる中で感じる苦痛と憂鬱の原因が何であり、その状況から抜け出し自立に向かうことが出来る「理論的な案内」の資料になってくれたらと思う。それで色々な例を挙げながら出来るだけ簡単に面白く確実なメッセージを伝えたかった。しかし、今になってもう一度読み返してみると、やはり誰かの意見をコピーした文章が見せてくれる共通点として、衒学的であり複雑であり難解な文章のようで恥ずかしい。それでももっとも恥ずかしい部分は、私が書いた言葉が私の行動を超えてしまっているようで、その部分が最も恥ずかしい。
 
しかし自衛するのであれば、この文章は理論的案内書であり、一つの理論的宣言である。今の宣言をある実質的で具体的な方法を作って実践に移すかどうかはこれからである。私たちが一緒に、その実践の方法を見つけるためにこの文章が一つの材料になってくれたらと思う。
 
 
 
 
最後に、異なる人の意見で長い文章を書いたが、私が考える自立した人とは、
 
『次は何をしたらよいですか?』と尋ねる人ではなく、
『これをしたいのですが、共にする方法は何があるでしょうか?』と尋ねる人である。
 

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