Staff BlogNagoya

picture42-内容

2013/10/28

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越谷店写真。

 

写真が段階的に発展してくると、一定期間のトンネルに入るようになります。もっと何かを良く撮りたいと願いながらも、知らなければいけないことはもう大半は知っていて…。

何かを知らなければその次にはいけないことは知っているし、自分が都合よく見ているその光景の何かが変わらなければ、残す瞬間の内容も変わらないことも知っています。

 

写真をどう撮影するかは人それぞれですが、一枚の写真として最終的にアウトプットするまでの過程には差異があります。

 

写真を構成する要素は多くあります。光、構図、インテリア、衣装、レンズ、ポーズ…。三年くらい写真に真剣に携わるとその全てではないですが大まかな技術的原理が自分の中でつくられていきます。光はこちらの方向からが綺麗で、構図はこのようにするとバランスがよく見え、色の関係はこれが適切で…。

そのような技術的基本法則は、ある一定期間自分が習得すると後はその原理の組み合わせの問題であり、その組み合わせの数だけフォトグラファーの技術的なレパートリーとなっていくと思います。

 

自分のイメージで言うとレパートリーとはフレームワークみたいなもので、一枚の写真が出来上がる過程においてフレームワークの使用は二次的、副次的なものだと認識しています。写真は技術的な要素が多分に含まれるが故に、撮影を始めた段階で私たちはまずは二次的であるフレームワークの習得から始まるので、写真を撮る過程において、本来は二次的であるフレームワークが先行して撮影することになります。勿論全ての撮影においてフレームワークが先行して撮影しているとは断定できませんが割合の問題だと思っています。

 

それが習慣化されると、写真家として厄介なのはフレームワークに囚われることによって、撮影する内容の整理と把握が二次的になることだと思っています。フォトグラファーは撮影されるべき瞬間として内容がいつ訪れるか、その機会を常に緊張して待っていなければいけません。個人的な見解ですがそれが第一に先行されなければいけないと考えています。もし私たちがその機会に注意を置いていないのであれば、被写体の、その人の何を残そうとしているのでしょうか?一人ひとり違う、その被写体に深く入っていく過程は、探求していくことに似ています。まだ見てない何かを、まだ見えてない何かを、まだ現れていないその姿を、それをどうやって発見するのか?それを偶然ではなく、予測可能なものとする為の自分の技術として習得していくかが私達の当面の課題のように思えます。

 

結局は自分が被写体をどう動かすことができ、その一連の動きをどのように自分がカメラ側で処理できるかが重要になってきます。

 

最近自分が自分で納得できることは、何かが完成するまでの手前に自分が見えていなかったものがあるということです。それを見えていなかったと表現しても正しいでしょうが見ていなかっと表現しても間違いではないと思います。予測不可能な瞬間をどうきりとるか。

 

例えばあるイメージを自分が持ち、そのイメージに従って被写体にポーズを指示し組み立てていくことはフォトグラファーにとってはある程度予測可能な写真であると思います。なぜならばそれはゴールを決めて撮影をしているからです。私の中の予測不可能な瞬間というのは最終地点が決まっているわけではなく、最初から予期しているわけではなく、瞬間に訪れるものです。被写体に声をかけながら、どのような仕草、ポーズ、表情が表れるのかは分からないけれども、まだ見えないものを待つというのか…。

私はこの流れで出来上がる写真を「余計な写真」と勝手に名づけています。

 

フレームワークを先行すれば写真の内容に変化が少なくなります。瞬間を切り取らなければいけない場合、フォトグラファーが内容に集中するとで、フレームワークが後手になり、技術面での水準が若干下がることがあります。

 

結局、内容を求めながらも、その内容に合わせて適切にフレームワークを使用することが求められる技術だと思います。

 

 

予測不可能なものを予測可能に。

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