Staff BlogNagoya

picture37-成人写真

2012/3/31

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何か新しいものが欲しい、そう願うのであれば整理が必要になります。自分の写真の発展を願いながら、良く撮りたいという欲求と良く撮らなければいけないという脅迫に近い義務との狭間で自分なりの答えが見つかる時があるのだと思います。それを自らが発見した時というのが正確に自分を評価できたといえるでしょう。

 

成人写真の撮影手法の一つとして正確なイメージを持つということが上げられると思います。正確なイメージを持つというのは容易なことではありません。

人、場所、空気、色、光、構図、全てのものが単純に見えながらもバランス良く融合されなければいけないと考えます。私が撮影を始めた当初はこの融合という意味を自分で適切に理解することができませんでした。融合させる要素全てを理解することができなかったというのも理由の一つですが、そもそも自分の目で見えるものが少なかったというところが本当の理由です。ここまでは納得のいく話だと思います。重要なのはどのように見えるようになったのか?ということです。

一つには条件を変化させ自分に合ったものを採用するということだと思います。こういう話をすると良く理解されませんが、ただうまく表現をするのであればこうなります。それをどれだけ自分の中で作れるかが鍵になります。発展の扉の鍵を手にし、自ら開けなくてはいけません。簡単に説明してみます。

 

一つ。

人に真剣に伝達をするというのも私の中で鍵となるものでした。いつも写真を撮ると思うことがあります。頭の中にあるイメージが実際の撮影で100%表現したいと思っていても80%程で止まってしまうというのが自分の限界点でした。その壁というのを自らが壊す為には何か特別なことが必要であるということは経験で理解していました。ただそれを見つけるのは容易ではありません。情報のインプットとアウトプットを繰り返すことによって、また自分以外の者に説明することによって頭の中が整理されるのが自分で理解することができます。それが一つの鍵となります。インプットだけに集中していただけでは限界があるということを知りました。結局インプットされたものだけでは限界でアウトプットの方法を思考するということで私の中での何かが整理されました。勿論アウトプットを行ってこなかったわけではありませんが、比重と内容の問題であり、どうそれを適切に行うかが課題でした。この繰り返しによって少しずつ写真に変化が生じたと考えます。だから写真の評価と分析を繰り返すというのはそういう意味において有効的であると思います。

 

二つ。

真剣なフィールドをつくること。写真関係の本か雑誌かは忘れましたが愛するべきものを撮りつづけるということが発展の条件であると書かれていたことを覚えています。好きなものを撮るとか自分と近いものを撮るというのがそれに類似した内容だと思いますが。ただ当時は実感として沸くことはありませんでした。この文の持つ意図を言葉で説明をすることは難しいですが内容を解釈するのであれば真剣なフィールドで戦うということが自分を客観視し気づきを与え、潜在能力を発揮できる可能性があるとうことではないかと今の時点では理解します。写真を撮るということにカメラマンであれば勿論常に真剣であると思います。ただ特別なフィールドにおいては自らが予想していない何かを感じ取ることができます。カメラマンが被写体から何かを汲み取って感じ、イメージを正確に表現するということで一つの写真が完成します。ただカメラマンは出来上がる写真に対し、ある程度予想することができます。当たり前の話です。ただ予想される写真ではどこか物足りなさを感じます。理由は自分が知っているからです。そうなるとカメラマンの倦怠期が訪れます。カメラマンとして何か新しいものを生み出したいと願いながらも知っているものだけを撮る、写真の日常に変化がなければ苦しくも感じます。

良い写真とは「用意されたものと偶然的要素」が混合していると考えます。全てが用意されているもので写しだされるのであれば訴えかけるだけの力が足りないような気がします。自分の予想に反する何かを敏感に感じ取り、持ち合わせていたものと融合させた瞬間に全てのもののバランスが整ったと判断していいのだと思います。私の考えでは良い写真の条件の一つとして偶然的要素が必要だと理解していますが、偶然的要素を瞬間的にどのように判断するのかもまた同時に考えなければいけません。私はそれが真剣なフィールドを準備することであると認識しています。人の感覚というのは常時フル稼働しているわけではありません。自分が休ませていないつもりでも状態が50%の時があります。それを日常自ら気づくことは少ないように思えます。だからフル稼働させる場をつくらなければいけません。そのような状況において偶発的に発生したものに敏感になり、自然と捉えられるようになります。本能的になるというのでしょうか?偶然を見つけるのも、発生させるのも結局はカメラマン自身に委ねられということです。

 

 

外に撮影に行きました。特に何かを意図したわけではありません。何かが見つかれば良いという期待はありました。公の前で何かを発見すると豪語しながら、後から後悔する経験を何度したかは分かりません。恥ずかしさと期待を抱えながら撮影を始めました。いつも経験する感覚です。

人には最適な距離というのがあると思います。二人の場合もそれは同じでどのような距離バランスが良いのかを見極めようと思ってもそこまでは見極めることがいつもできません。ただこの時の環境条件は少し私にそれを理解させる猶予を与えてくれました。

撮影をしながらゆっくりと二人を見ていきながら持っている匂いのようなものをかぎ分けながら徐々に中心に迫っていこうと…。一つひとつと自分の中で勝手に手ごたえを感じながら、予想通りに流れる時間の中で、まだ一つ迫りきれないという焦りを同時に持ち合わせながら公園を一周していたように思えます。

 

写真は至って単純です。だけれども良い写真だと認識しています。

良い写真はシンプルであるべきですし、全てがバランスよく配置されることが好まれます。四角の中にただ収めるという方式をとれば窮屈さを覚えます。切り取らなければいけないのですが写真の中にも余裕が含まれなければいけません。そのような意味においてやはり構図というのは写真を大きく決定させる枠組みになります。

また撮影を繰り返しながら、私の中で二人対するイメージが少しずつ決定されていきながら、それを表現できたと思う一枚がこの写真です。このように写すことは勿論意図したものであるし、指示もしました。そこまでは予想通りでした。ただ下を向き少し照れながら笑う彼女の笑顔は偶発的なものであり、決定的な瞬間だったと思います。人が見ればそう思わないかもしれません。ただ私の中ではそれを待っていたのだと思います。それは長く見てきたから分かるものかもしれません。勝手に自分が思っていることかもしれません。

 

良いカップルを見ると安心という美しさを感じます。期待が持てるというと大げさかもしれませんがそんな意味合いに近い気がします。今までとこれからが圧縮できたと思っています。この写真に自分の感情が移入していることは否定することはできませんが、ただそれを取り除いたとしても美しくみてとることは可能ではないでしょうか?

 

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